花柄の傘さし行かむ雨月かな 湯川洋子 待ち望んだ明月の夜、くろぐろとした雲がかかっていたが、やがて雨になってしまった。 何とも恨めしい雨ではあるが、その奥にはきっと皓々たる満月がかかっていることだろう。見えなくても心の内にほの明るさを覚えながら、作者はせめてもの思いで、愛らしい花柄模様の傘を取り出されたのである。 雨月の美しい雨の情感がにじんでいる。 (草句の会) 人の間を水平飛行鬼やんま 小川文水 〈とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな 中村汀女〉、〈蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ 中村草田男〉、など蜻蛉は人懐かしい昆虫である。 蜻蛉の中でも一番大きいのが鬼やんまであろうか。黒地に黄色の縞があって、いかにも強そうに見えて、美しい。 そんな鬼やんまが、身ほとりをすっと飛んでいった。思はず目で追うと又やってきて、すいすいと、水平に巡回してやまない。 あれっと思った瞬間を、簡潔明瞭に言い切ってすがすがしい。 鬼やんまの「鬼」の一字が「人」に照応して微妙なおもしろ味を醸し出している。 (草句の会) 代々の半纏軽く秋祭 眞野晃大郎 「祭」は夏のものであるから、「秋祭」というと、夏のそれとはどこか趣の違うものが詠い出されてほしい。 「代々の半纏」は、もうすっかり古びていることだろう。そして、「軽く」は羽織ったものの実感であろうか。 澄み切った木立を抜ける風もやさしい、素朴な里山の秋祭がよく表わされている。 (草句の会) 満月や老いの背中を伸ばしけり 藤田若婆 作者は数年前、若葉の盛んなる頃、「初めての俳句教室」に入会され、俳名をおすすめしたところ、たちどころに「若婆」と名乗られた。 そのセンスのよさに驚かされたことを思い出す。 その後は期待を裏切らぬ精進ぶりで、次々と佳句を打ち出されている。 満月の夜、そのシャンとした姿勢に、月の女神もにっこり微笑んで、月光をいっそう明るくしてくれたに違いない。 「や」「けり」になっているが、ここはそのままにしておきたい。 (草句の会) 鈴虫が猛暑の終り告げにけり 後藤久美子 残暑の厳しい日々が続いていたが、ある夜、ふと感じ入った鈴虫の声である。 鈴虫はまこと鈴振るような音色で夜通し鳴いてくれる。 ああ、いよいよ明日はもうこの猛暑ともお別れできるに違いない、嘆息まじりに籠の鈴虫としばし対話されたのだろう。 猛暑のやるせなさを鈴虫が救ってくれたのである。 (花野会) 天空の千五百段霧の中 小川清 濃くたちこめた霧の中に、1500段の階段が空に浮きあがったように見えるてくる。山の斜面をはい上がってゆく霧の、うっすらとした冷やかな感触までもが伝わってくる。 まさに迫力のある山霧である。 1500段という途方もない数の段々が、霧を象徴してやまない。 (花野会) 炊き上げし飯の匂ひの稲穂かな 二村幸子 よく実った稲の穂は馥郁として、何やらなつかしい匂いを放っている。刈上げる頃にはすっかり香ばしくなっているが、掲句はいち早く嗅ぎ分けられた出穂のころの匂いであろうか。 思えば、稲穂が米になり、ご飯になるのであるから、そんな匂いがするのは当然と言えば当然であるが、固いものと柔らかなるものの対比もあってどこか不思議に思われるものである。 ここには豊年のよろこびがかすかにも漂っている。 (花野会) 秋風やこのごろ増える針仕事 湯川桂香 女の針仕事が日常であった昔に比べ、近年は、針仕事そのものが誰にも減っている。 それなのに、何故だかこの頃、ボタンを付けたり、着丈の寸法を直したり、カーテンのほころびを綴ったり、針を持つことが多い。 ふと、珍しいことだなと感じ入ったとき、涼しくも爽やかな秋風が吹き抜けていった。 秋風の本情ここにありと言うような句である。 季節の移り変わりが、ごく自然に人の日常に通い合っていることが知れるものである。 (木の実) 若者の輪の中にあり誘蛾灯 大本華女 誘蛾灯は害虫を殺すための灯火である。 〈鬱々と蛾を獲つつある誘蛾灯 阿波野青畝〉、まさにこの通り、大方の誘蛾灯のイメージは薄暗くも美しい水田の風景などとかぶさってくるものである。 ところが一変、掲句の誘蛾灯は新しい。 この光景はどこかであるかは断定できないが、少なくとも昔よく見受けられた田んぼのあぜ道あたりではなさそうである。 今は次第に使われなくなくなった誘蛾灯というものの存在に、新しくも現代の命を吹き込まれた。 文字通り目を見張るような一句。 (木の実) 新涼やたちまち埋まる予定表 上野春香 猛烈な残暑のとある日、大雨が過ぎ去ったあとなど、ふと思いがけない涼しさを覚えて、よみがえったような思いがする。これが新涼である。 このすっきりした感覚に、「たちまち埋まる予定表」が何とも気持ちよく付いている。 作者はゴルフをされるから、真っ先にコンペの予定が入ったかもしれない。 静かにも力を蓄えた人の句である。 (青葡萄) 白露を集めて葉先しだれけり 常世いよこ 俳句はオブザベーションだと言った俳人がいたが、この句などは、本当によく観察されている。 朝露であろうか、凛とした露の重みが感じられる。しだれた葉先からは雫となって零れおちるしかない露である。 この静かにもじっくりとした時間に、露というもののはかなさを凝縮している。 (青葡萄) 今朝秋の鏡に対ふ病みあがり 中園子 立秋の朝に、鏡をのぞいた、というそれだけのものではない。 「鏡に対ふ」には、一つの意志をもって鏡の前に立っている作者がうかがわれる。 どのような病状であったかは知れぬが、ともかくも立ち直った。 まだ万全ではないが、立秋を迎えたからには一つ元気を出して、心の張りを失わないようにしよう、そう言い聞かすように鏡の私に微笑んで見せられた。 こんな作者には病の方から退散してくれるだろう。 (青葡萄) 新涼の起きてすぐ書く日記かな 菊竹典祥 日記はその日のうちに書く人と、昨日を思い起こして翌日書く人がある。 作者は朝起きてすぐ書かれるというのである。日記を書くことが、まこと朝飯前の仕事になっているのであろう。 それもこの頃の新涼のもたらす一つの喜びである。 こういう日記には暗いことは何も書かれないであろう、今を生きる肯定の言葉ばかりが感謝をもって綴られているような気がする。 (青葡萄) あの声はやはりひぐらし昼下がり 佐藤昌緒 残暑の厳しい昼下がりであろうか。 いささか暑さに閉口しながらも、俳句をひねったり、小説を読んだり、けだるくもゆったり過ごされているのであろう。 さっきからどこからともなく聞こえていたあの声は、ああそうか、蜩であったか、そういう気付きの間合いが何とも言えず初秋の雰囲気をたゆたわせている。 蜩の、かなかなかなという遠くからしのびよってくるような声が、耳を澄ませば読者にも聞きとめられるような表現の運びが巧い。 (青葡萄)
by masakokusa
| 2014-09-30 22:52
| 『青草』・『カルチャー』選後に
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