月明の畳にうすき団扇かな 原石鼎 昭和3年
先日、梅雨の満月の頃、二階へあがると畳に月の光がうっすらとさしていた。
この鬱陶しい時期に何と美しい明るさであろうか、しばしうっとりしていると、はたして石鼎の句が思い出された。
風の嫌いな私には、クーラーや扇風機はもとより、扇子や団扇の風さえも、時にうとましく感じられるのだが、石鼎のこの団扇ほど手に取ってみたいものはない。
団扇といえば、黒田清輝の「湖畔」に描かれた女性の持つ団扇が、涼しき色香を漂わせて傑作であるが、掲句もまた、一幅の絵になり映画のラストシーンになりそうな奥行きを漂わせている。
団扇と扇子は共に涼をとるためのものであるが、
扇子置き団扇を持ちてくつろげる 岸本尚毅
この句の通り、扇子は高尚にして外出用、団扇は庶民的にして家庭用といえるだろうか。いかに世が進んでも、祭など夏の風物詩に欠かせないところは共通している。
ちなみに、掲句が「月明の畳にうすき扇子かな」ではサマにならない。
団扇だからこそ新しいのである。
そういえば、原石鼎全句集には、掲句の隣に、
名月の畳にうすき団扇かな 石鼎
が並んでいるが、これも名月では印象がかたまってしまって、ふわっと団扇が浮きたたない。「月明の」が絶妙である。
この切り出しは、石鼎のおはこのようで、
月明の障子のうちに昔在 石鼎 昭和4年
団扇にかぶさってくる人の世の詩情もうかがわれるものである。
参考までに、
ほろほろと雨つぶかかる日傘かな 石鼎 昭和4年
ほろほろと雨のふり来し日傘かな 〃 〃
美しき風鈴一つ売れにけり 石鼎 昭和4年
美しき風鈴道に売れにけり 〃 〃
原石鼎全句集にはかくのごとく、同様の句が並んで掲載されている。
だが、原石鼎『花影』に採用されているのは、どちらも前句の方である。
状況の説明をすると俳句はツブシになることが一目瞭然。真実のリアリティーとはこういうことであろう。
石鼎ほどの俳人にしても、先づは書きあげてみるという手順があったのだと思うと、名句の生れる現場に立ち会えたような楽しさが味わえる。