昌子の会・青草抄(平成25年3月)        草深昌子選
 
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   一歩き一休みして春の雲     江藤栄子
   
 よく晴れた青空に、うっすらとした雲が一つ、又一つ、とびとびながら、どことなく柔らかにつながっている春の雲ではないだろうか。
 地上と.天上が交響しているかのような春らしい光景が立体的に写し出されている。
 「一歩き一休みして」という歩調そのままのリズム感が、春の雲のぽっかり感に照応して、何とも楽しい。
 作者の息づかいまで聞こえてきそうな、明快な一句である。
(セブンカルチャー)


   春一番濡れて帰りし子に笑顔     矢島弘子

 立春から春分までの間に、その年に初めて吹く南寄りの強い風を春一番という。
 関東では3月1日であったろうか、気温はぐっと上がったものの夜には雨が降ったように記憶している。
 「お帰り、あら濡れたの」、「そう急に降ってきたのよ」、その声は意外にも明るく少しもイヤな顔をしていない、それどころか、にっこりしていたというのである。
 親としてもそんな表情にほっとされたのだろう。
 春一番の吹いた日の何気ない一コマを切り取って、読者にもあたたかみをもたらしてくれる。
 事実をそのまま描いて、梅雨でも、木枯でもない、春一番ならではの情趣がよく実感されるものである。
(セブンカルチャー)

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  春嵐松ぼっくりは口を閉ぢ     長田早苗

 春の強風は時に時雨を伴って暴風雨になることが多い。ことに今年の嵐は凄まじかった。
 作者も雨風に真向って歩き悩んでおられたのであろう。
 ふと目を落した地面には松ぼっくりのウロコがみな閉じられているではないか。
 いつも見慣れた松ぼっくりはウロコを開いた状態で落ちているのであったが、今日は、この強風に松ぼっくりさえも必死に耐えているであろうかと、つくづくと眺められたのである。
 「口を閉じ」は思わずもらした口吻である。その擬人法も巧いが、そもそもこういう自然現象にはっとすること自体がすばらしい。
 博識によると、松ぼっくりは乾燥するとウロコを開いてタネを遠くまで飛ばし、雨の日など湿ったときにはウロコを閉じてタネを出さないようにしているという。
 そんな生物学的メカニズムを全く知らなかったが、驚きの一句でもって、裏付けをとっていただいたという感じである。
(草句の会)

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   卒業の子らは背が伸ぶ目に見えて     堀川一枝

 晴れの卒業を迎えた子供たちは、誰もかれもが見上げんばかりに急に背が伸びたことよと、作者は満面の笑みを浮かべておられる。
「目に見えて」というのは、状態の変化がはっきりそれとわかるほどに、顕著に伸びたということである。
 孫の背などは、出会うたびに大きくなるように思われるものであるが、そんな日常的な、個人的な見方とは一線を画するものが卒業の「目に見えて」である。
 その頼もしさ、その眩しさがそのまま卒業の子供たちへの讃歌になっているのである。
(草句の会)

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   畦道にへばりつく芹摘みにけり     新井芙美

 30年も昔になるが、厚木に越してきたころには近辺のちょっとした水中には芹が群がって生えていたものだが、今はあまり見かけない。
 掲句は、田の畦の湿地に見つけられた芹である。ぎゅっとばかり、全身の力を指先に込められた喜びが伝わってくる。
 何といっても「へばりつく」が輝いている。
 この五文字でもって芹の状態はもとより、摘草の情況やその心もち、香気までもが浮かびあがってくるのである。
 自然が大好きな作者の面目躍如たる句である。
(草句の会)


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   一升餅背負ひて三歩ひなまつり     齋藤ヒロ子

 「一升餅背負ひて三歩」、これだけしか言ってないのに、何とめでたさに溢れた句であろうか。一族の歓声が聞こえてくるような、あたたかさと明るさに包まれている。
 初節句を迎えた、いとし子は生後何カ月であろうか。
 一升の重みに耐えかねて転んだり泣いたりしたかもしれない。だが一升餅は古来の縁起物、何があってもその愛らしさに大笑いである。泣いたら泣いたで、一生の重みを知ってこの子はきっと賢く育つに違いないと拍手喝采したことでしょう。
桃の節句が、こうして親から子へ先祖代々引き継がれてゆくことのゆかしさにしみじみと感じ入ったことであった。
 <雛仕舞ふがらんとなりし座敷かな>も同じ作者のもの、祖母としての、もの静かな感慨である。
(花野会) 

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   紅梅の洞をのぞいて何もなし       山森小径

 紅梅は白梅と違っておのずから艶なるものを醸し出して人々をひきつける魅力をもっている。
 「春は名のみの風の寒さよ」というような時期にあってはひとしおその色鮮やかなあたたかさはどこからもたらされるのか、不思議なくらいである。
 ふと作者も古木の幹がざっくり割れてあるところ、曲がりくねった洞に顔を近づけられたのであろう。当然ながら、「洞をのぞいて何もなし」である。
 そのあっけらかんとした表現が、そのまま紅梅の気品のありようを伝えて余韻たっぷりである。
 高濱虚子の、<紅梅の紅の通へる幹ならん>を思い出させるところも余禄である。
(木の実)
by masakokusa | 2013-03-30 23:52 | 『青草』・『カルチャー』選後に
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