昌子の会・青草抄(平成25年1月)        草深昌子選
 

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   二日はやディーサービスの迎へ来ぬ     石堂光子 

 正月一日は、遠く離れて住む息子さんも帰って来られたであろうか、家族揃って祝う雑煮やおせち料理は格別の味わいだったに違いない。
 どこの家庭でも一日は、泣いたり怒ったりしないで、静かに過ごすのが古来の慣習であり、ちょっと肩の凝るようなところに気分があらたまるものである。
 明けて二日は、初荷、初乗り、初湯、書初めなど、さまざまに行事もはじまって、今を生きる人々の生活がいきいきと始動する。
 光子さんのお宅には二日にして、早くもディーサービスのお迎えの車が横付けになった。老齢のお母さまはきっと上々のご気分で乗り込まれたことだろう。見送る家族も、有難さにほっとするひとときである。
 <まづ母の予定書き込む初暦  光子>も同じ作者のもの。母の介護を生活の中心に据えて、自身の向上への努力も忘れない作者の意欲と感謝の気持ちが滲み出ている。
(青葡萄)


   初謡不断の曲の新たなり      菊竹典祥

 年のはじめに謡曲を朗々と謡いあげられたのである。
 謡のことはよく存じあげないが、奥深い世界であることは想像に難くない。一生をかけて熟成されていくものであろう。
 典祥さんはたしか82歳。100歳を超えた謡仲間の女性の背筋の通った生き方のすばらしさを、句友の我々にもよく教えてくださる。
 典祥さんも又矍鑠たるもの。この簡潔にして断定した一句の姿がそのまま典祥さんの真っ直ぐな姿にかさなっている。
 一年を加えるということは、平常慣れ親しんだ曲であっても、そこに「新たなり」の瑞気を自ずから取りこんで、かくの如く認識するところにあるのだろう。
(青葡萄)

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   寒卵朱色に染まる日の出かな    齊藤坐禅草

 寒中に産んだ卵は栄養価が高く、貯蔵も長く利いて重宝にされる。
 そんな寒卵が、鶏小屋に産み落とされて、折からの日の出にあかあかと朱色に染まっているというのである。
 坐禅草さんは、東京農大のお近くにお住まいで、句材を拾うためによく農大構内を散策されるそうだから、掲句も、農大で飼っている鶏かもしれない。
 俳句を始めて二年にして、かくも力強く美しい一句が生まれた。
 まさに「寒卵」の値打ちである。
(草句の会)


   潮の香の湯に包まるる寒の入    森川三花

 今年の寒の入りは正月5日であった。寒さを覚悟の上の露天風呂であったが、存分の湯気には、何とほのかにも伊豆の海の潮の匂いがこもっていたのである。
 「潮の香の」発見が寒の入りの実感となって一句を引きしめている。
 旧年の不幸も困難も一切を忘れて、ただただふわーっと幸せの湯気に包みこまれておられたのであろう。
 ロマンチスト三花さんの夢見心地が、文字通り匂い立ってくるような一句である。
(草句の会)


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   しがらみを脱ぎ捨て生きん冬の川      小川清

 しがらみは水流を塞き止めるための柵であるが、転じて、人が生きていく中で、まといつくもの、引き止めるものをいうことの方が一般的になった。
「しがらみを脱ぎ捨て生きん」という観念的とも思えるフレーズが、真実作者のものとして立ちがってくるのは、ひとえに「冬の川」という季題が決まっているからである。
 水量の少なくなった川であるが、その水流は杭にぶつかり石に乗り上げしながらも潔い音を上げながら一途に流れている。蕭条とした中にも折からの冬日は眩しいほどである。
 「しがらみを脱ぎ捨て生きん」というのは、自由に生きようとする作者の決心であると同時に「冬の川」の光景そのもののようにも機能しているのである。
(花野会)


   大冬木曲りし角に祠あり      佐田とよ女

 町外れであろうか。大冬木はすっかり裸木となった欅などが印象される。がっしりとした幹をぐるっとまわった、その角に小さな祠があったというのである。
 だれしもが経験したことのあるような、懐かしい情景が目に浮かぶようである。
 「曲りし角に祠あり」という叙し方には、静かなる歩幅まで感じられるし、そのことであらためてその土地に長く生き続けた冬木の貫録も思われるのである。
(花野会)

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   好きなこと互ひにしてる炬燵かな      中澤翔風

 炬燵は一家団欒の象徴ともいえるものであるが、翔風氏の炬燵は、一つテレビを共に見るのでなく、一つ蜜柑を剥き合っているのでもなく、思い思いに好きなことをしているというのである。
 何と幸せなひとときであろうか。
 「互ひに」は老夫妻でも親子でもいい。
 古くから庶民に親しまれた「炬燵」が、俄然現代性を帯びて洒落ているではないか。
 「してる」という口語調も気楽さの表出であろう。
(木の実)


   読初の本借り出しに出掛けんや      間正一

 新年になって初めて読む本を、さあ図書館に行って借りて来ようというのである。
 読初めに選ばれる本は、平素はなかなか読めない大冊であったり、長く書架にある愛読書をあらためて熟読しようとしたりするものであるが、作者にそんな気どりはない。
 何とも率直に読初めをとらえて新鮮である。
 ぶっきらぼうな言い回しのようであるが、ここには新年のくつろぎが充分に感じられるし、とりあえず家を出て新年の淑気に触れようとする心意気も伺われるものである。
(木の実)

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   侘助の咲けばなにやら口寂し    江口こう助

 侘助は椿の一品種ですが、椿のような華やかさはありません。花は一重で、小さく口をすぼめたように半開きです。そして色は白か薄いピンクでしょうか。
 もし侘助と言う花を具体的にそれと知らなくても、「侘」という一字からして、思わず「詫び寂び」を連想するでしょう。虚飾のない非常に簡素な、何かが少し欠落したような趣きをイメージするのではないでしょうか。
 そう、茶人に好まれるだけあって、とても控えめな美しさなのです。
 ある日、作者は、庭に咲いた侘助を見つめていると、いつしか「なにやら口寂し」という思いに引き込まれていったというのです。
 「口寂し」というのは、お腹は空いてないけど何か口にしたいという気持ちです。侘助の咲く頃の寒さなら熱いコーヒーなどがいいかも知れません。いや、そんな実質的なものを欲するというより、潜在的な、何か満たされない思いが滲み出て来たのかもしれません。
 今、作者は侘助の心におのが心を重ね合わせて、静かにも自身を見つめ直しておられるのではないでしょうか。
 この句が一読一瞬にして、私の胸にひびいたということは私自身もまた侘助という花のありように心打たれたからにほかなりません。
(草句の会)


   釣堀の人影二つ夕時雨       眞野晃大郎

 原句は「釣堀の人影二つ冬時雨」でした。時雨は冬のものですから、あえて「冬時雨」としなくても、たとえば「釣堀に人影二つ時雨けり」、「釣堀に人影二つ夕時雨」では如何でしょうか、と申しました。
 しかし作者の写実には下手な抒情が少しも紛れてなく、ここに写しだされているのは釣堀の水に写ったすこしうす暗い人影の二つであった、それだけです。「それだけ」ということが最も尊いのです。だからこそ作者は「冬時雨」と名詞止めにしたのでした。ここは後者の添削が適切でしょう。

 私はこの情景に時雨という急にぱらつく雨の冷たさを身に入みて覚えます。連峰の山々から降りてきた、まさに墨絵のような時雨の情感です。この二人の釣果も思わしくなかったのではないでしょうか。それでも、季節の巡りの中にある人影が二つであったことは、救いです。ときに時雨をかがやかせてもいます。
 句会でも、何やら艶やかなもの、何やらなごやかなものを感じ取られた方もおられました。俳句の解釈は一つですが、鑑賞は人それぞれに自由です。
 鑑賞の幅が広いということ自体、この句が秀句であることの証しです。
(草句の会)


   湯婆や添へた赤子と同じ丈      湯川桂香

 「何だ!これっ!」ってびっくりしました。「湯婆」の句で、こんな句は見たことがなかったのです。
 そして直ぐに、産子の頬っぺがいっそう真っ赤に感じられて、「かわいい!」って快哉を叫びました。 
 「添えた赤子と同じ丈」という、およそ体裁ぶらない、一気呵成の表現こそが、赤ちゃんのあまりにも小さな、あまりにも尊い命への驚きであり、最大の慈しみにほかならないことに気付かされます。
 原初的な命のありようを、湯婆という日常の何気ないものを通して、文字通り対比して見せたのですが、ここには何のはからいもありません。
 ただただ作者の無心の喜びが伝わってくるばかりです。
(木の実)
by masakokusa | 2013-01-31 20:00 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
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