夜の眼鏡蜜柑の皮にのせてあり 昭和7年
風邪が長引いて、なかなか治らない。
そこへ、「ビタミンCを沢山とって風邪を引かないようにね」と松山の友人が、甘くて大きな温州みかんをどっさり届けてくださった。
思わず私の好きな一句、
みかん黄にふと人生はあたたかし 高田風人子
が思い浮かんだ。
蜜柑は食べ出したら止められない。若いころは、手のひら足の裏が真っ黄色になるほど食べていた。その味もさることながら、蜜柑の黄という、日の光を思わせる色彩は、たしかに一家団欒、よき絆の象徴のように思われてくる。
そこで、石鼎ならどんな「蜜柑」の句を作るのであろうかと、全句集を繰ってみたら、掲句に出会った。
何と面白い句であろうか。およそ蜜柑という季題でこういうところを句にするものであろうか。「やっぱり石鼎だな」と頷かされる。
昼日中の眼鏡でなく夜の眼鏡であるところがよい。灯火の真下に置かれた蜜柑の黄はいっそう濃そうである。
ソフトなるものの上の硬質なるもの、その取り合わせが決まっている。このしんかんたる夜の眼鏡は何ともの静かであろうか。
「のせにけり」ではない、「のせてあり」である。いつ載せたのか、無意識のなせる業である。そのことを今さらに見直しているのが詩人の眼である。
石鼎のことを私はしかつめらしく思わない。どこか変だと思う、そのつかみどころのなさが、おかしい。面白い人でなければ面白い俳句は作れない。
もっとも蜜柑の句のどこが面白いのかと問われても論理的には答えようがない。面白いと直感した人だけが面白く感じられるだけである。
そもそも俳句とはどこにも因果関係がなく、直感で作り、直感で読むだけのものである、そのことを石鼎の句は物語っている。