関悦史が読む
平らなるところなかりし花野かな 昌子
言われてみればその通りという着眼。
その着眼を帯びて花野の実在感と生命感が立ちあがってくるという、力みのない写生的佳句。
こういう句の怪しみと魅力は、明晰な認識が、語り手が「花野」に浸透されることとイコールになるところから来る。
笹木くろえが読む
三つ四つ棗齧つてから笑ふ 昌子
棗を三つ四つ。少しばかりつまんだところだ。
ここの時間経過が絶妙である。本当は笑える心境ではない。そこを短い時間で切り替えて、微笑んで見せた。この人物の内面の複雑さを表現して巧み。この場面の前後をつい想像してしまう作品だ。
岡田由季が読む
汗すぐに風に冷えたる子規忌かな 昌子
汗をかいた後のひやっとする感覚は誰にでも経験のあることだろう。
暑さがようやくおさまる子規忌の頃の気候を思い、また冷えた身体の感覚を追体験することにより子規の身体への連想へも通じるのである。
藤井雪兎が読む
平らなるところなかりし花野かな 昌子
この光景に気付かない人は、自身がすでに花野の一員になっているのかもしれません。
私もその一人です。果たして作者が花野の一員になる日はいつなのでしょうか。
その時花野を作者はそのように迎え入れるのでしょうか。
高畠葉子が読む
なまじ雨落ちたる朝の露けしや 昌子
初学の私には草深氏のお句は少々難しく勉強になった。
露の間というタイトルからやはり露の句は外せないと思った。
この句はやはり難しい。「露けしや」がこのまま読んでよいものか、、、露けしや。
もしや涙に明けた朝であったのではないか。なまじ雨と涙に濡れた朝。
素敵である。
露の身のもの食ふことを怠らず 昌子
露の身となりてもものを食う。
怠らずというからには本当のところはあまり食はすすまないのであろうか。人間最後は体力だと聞いたことがある。ここ一番、踏ん張れるかどうか。食うか食わぬかにあるのだろう。
平らなるところなかりし花野かな 昌子
花野。人生にたとえるならば後半生に咲く花たち。地味ながら味わい深い色と枯れ草とのコントラストは美しい。その、地が平らな訳がない。
一部の隙もなく納得の句だった。