鉞に裂く木ねばしや鵙の声 原石鼎
『虚子選ホトトギス雑詠選集100句鑑賞』「秋」岸本尚毅著に、この句の鑑賞が出ている。
― 鵙が秋季。鉞(まさかり)で裂く木を「ねばし」と感じた。鉞の刃に粘りつくような木の質感を詠った句である。その質感と、鋭い鵙の声が照応している。「裂く木ねばしや」と「や」で切っておいて、間髪を入れずに下五に「鵙の声」を据える手腕は、鋭く、力強い。
惚れ惚れとする一句である。
木の生々しい質感を詠った句には「斧入れて香におどろくや冬木立 蕪村」という句があり、句の息遣いは互いに似ている ―
掲句は初学時代から惹かれてやまないものであった。だが、こういう取り合わせの名句はビビッと感じるものの、どこがいいと言うのは難しい。下手に鑑賞すると「ツブシ」になってしまう。
その点、岸本尚毅著を読んで、いかにもすっきりした鑑賞に、なるほどそうかと「惚れ惚れ」したので、そのまますべてを引かせていただいた。
鶏頭の種採り地へもこぼしおく 皆吉爽雨
花の終った草花の種をよく晴れた日に、来年のために保存すべく採取する。「種採」(たねとり)は晩秋の季語である。
長い間よく咲いてくれた鶏頭の種を丁寧に採って、大事に紙袋に詰めていった。それでもこまかい種は艶やかに光って、地べたにいくつもこぼれ落ちる。
案外そのような自然の成り行きのものがまた芽を出してくれるとも限らないので、そのままにしておいたのであろう。
かの正岡子規が<鶏頭の十四五本もありぬべし>と詠った、あの燃えるような鶏頭花を咲かせてくれるのは、この大地あってこそのものという感慨もあったのだろう。
地へ還すこともまた一つの祈りなのである。
「地へもこぼしおく」という意識的にして、尚余韻を引いた措辞がこころにくい。
琵琶一曲月は鴨居に隠れけり 正岡子規
陰暦8月17日、陽暦の10月2日、子規は陸羯南の主催による月見の宴に列席した。
ある僧の月も待たずに帰りけり
琵琶聴くや芋をくふたる皃(かお)もせず
芋坂の団子の起り尋ねけり
月さすや碁をうつ人のうしろ迄
以前に、この秀句月旦でもとりあげたが、病身にして参加した子規は、高揚していたのであろう、「立待月」と題して、百句を連作した。
その夜は、芋、栗、柿の他、芋坂の名物の串団子なども用意され、筑前琵琶を聞き入った。囲碁に夢中の人もいたという。
まさに風流の宴である。
琵琶の音色は月明りをいやがうえにも神秘にしたことであろう。
十六夜のかかるまどゐの又ありや 松本たかし
陰暦8月16日の夜。前夜の満月はすでに終わって、一日分は欠けてあるのだが、その大きな月の明るさはまた格別である。
松本たかしは能楽界の大家の出でありながら、病弱のため能楽をしりぞき俳句の道に進んだ。24歳にして早くもホトトギス同人となっている。
静養の中にあって、十六夜の団欒のよろしさはいかばかりであったろうか。
子規が、立待月の宴に参加したときの思いも又「かかるまどゐの又ありや」という気持ちであったろう。裏返せばもういつ死んでもいいと思うほどの、明るくも美しい月下のひとときであったに違いない。