紫陽花に嗚呼と赤子の立ち上がる 岩淵喜代子 一句には「あ」音がリズミカルに畳み込まれて、読めばすーっとこちらまで背筋の通るような感覚が生じる。そのみずみずしき韻律がそのまま紫陽花の本領であり、奥行きのある季節感でもある。
「あー」ならぬ「嗚呼」と表記する作者は、すでに、現実世界の単なる描写を超えて、他界との交流の境地に陥っておられるのであろう。
ご機嫌の赤ちゃんが「あーあー」と発する声が、人としての言葉の原点であるならば、喜代子俳句の原点も又このあたりにあるようである。
なべてヌーボーとありながら、深く感応あればこその措辞に迷いがない。事物をすかさず象徴的なる季題に置き換える感覚はいかにも明晰。
〈葉牡丹として大阪を記憶せり〉なども一連の手法をよく現している。
作者の独断とも言える直感が、他の何ものにも取りかえられないかのように納得させられてしまうあたり、魔訶不思議である。
(『俳句』2012年9月号 クローズアップ岩淵喜代子句集『白雁』所収)