夏豆 蔵田美喜子
炎昼や己が濃き影踏んでゆく
灼けついた真夏の空、姿あるものはことごとく克明なる影を地上に落としている。私の影も又確かである。
実体としての私は弱いが、もう一人の私はいつも私を支えてくれる力強い存在だ。内面を静かにも意識する勁さが一歩又一歩私を前に進ませる。
年年に思ひ新たや百日紅
生きるということは年をとる以外の何ものでもない。この年になって、ああそうであったかと気付かされることの何と味わい深いことであろうか。思いを新たにするのは作者であるが、同時にそれは百日紅自体が内包するゆるぎない信条かもしれない。
夏豆を丁寧に茹で供へけり
季節を先取りする夏豆の選択からして気合が入る。その柔らかさを引き出すのはひとえに茹で加減にかかっている。ほくほくの湯気もろともにたっぷり偲ばれるであろう心ばえが何より丁寧に行き届いている。
千屈菜と高野槇とを求めたり
六道参りであろうか。京都の六道珍皇寺門前の六道の辻はあの世とこの世の岐れ道。先祖の精霊は槇の枝に乗って帰ってくるのだという。そんな参道で求められたのは千屈菜の紅紫と高野槇の濃緑。際やかな二色が御魂を迎える心情を色濃く映している。
山廬 田邉富子
竹落葉たゆたふ浅瀬狐川
〈旧山廬訪へば大破や辛夷咲く〉、蛇笏二十二歳の句。
山間の庵を意味する「山廬」は後に、飯田邸の別号となった。この山廬の裏手を流れるのが狐川、龍太の〈一月の川一月の谷の中〉の舞台として有名である。
せせらぎに口誦される名句の数々。
緑さす机上に用箋虫めがね
用箋もさることながら、そこに添えられてある虫めがねは、命あるもののごとくに今にも動き出しそうである。 ふと手に取ってみたい衝動にかられるのも、あたりに立ちこめる新緑の息吹のせいかもしれない。
汗の手に触れて遺作の竹箒
「こころ屈したら―そりゃあ、旅に出るのがいちばんいいだろうが、そうもいかない場合、私の道楽のひとつは箒づくり」
エッセイの名人龍太は、箒作りの名人でもあった。箒の柄はひやっとしただろうか。そのつるりとしたであろう感触が、汗でもって生々しくも実感されるのである。
唐黍の花咲く甲斐の小学校
甲斐と言えばたちどころに、〈水澄みて四方に関ある甲斐の国〉を思い浮かべるが、唐黍は又何と甲斐にふさわしい花であろうか。何も語らずして、山巓をはるかにした小学校がよく見える。無論、子供達は溌剌。
(平成23年11月号「晨」第166号所収)