茶の花の二十日余りをわれ病めり 正岡子規
子規はカリエスの余病として胃腸を病んでいた。明治29年11月半ばから12月にかけての病気は胃痙攣であったろうか。
茶の花は晩秋から初冬にかけて咲く小さな白い花。「冷え」とか「痩せ」を見せる花として茶人に好まれるらしいが、茶畑はもとより、生垣などに咲いて、身近に親しい花である。
掲句の「茶の花」も、子規の救いになっていたのだろう。病みながらも、美しくもあたたかな茶の花盛りの日数になぐさめを得ていたように思われる。
「われ病めり」、あえて「我」というあたりは自意識の高さと共に、我を見ているもう一人の我の目が伺われて、茶の花の印象をいっそう明確にしている。
しぐるるや蒟蒻冷えて臍の上 正岡子規
明治29年、「病中二句」の前書き。
蒟蒻は湯たんぽ代わりに患部を温めるために用いたのである。この民間療法は、昭和30年頃にもあって、腎臓を患った私に、祖母が熱く茹でた蒟蒻を日々お腹の上に置いてくれたことなどが懐かしくも思い出された。
掲句は、時雨が来て、さっきまで温かかった蒟蒻もいつしか冷えてしまったという一抹の寂しさが詠われるが、「腹の上」でなく「臍の上」という的確さがそこはかとなくおかしみを醸し出している。
〈小夜時雨上野を虚子の来つつあらん〉も同時発表、病臥の子規は虚子を今か今かと心待ちにしていたのであろう。
碧梧桐と虚子は「常に枕をはなれず、看護ねもごろなり」と『松羅玉液』に書いている。碧虚二子の手厚い看護のおかげで子規はこの年の暮れ、句会に出かけるほど快方にむかった。
十二月上野の北は静かなり 正岡子規
明治29年、「閑居」の前書き。
子規は、根岸に母親と妹と三人で住んでいた。ここで句会も行われ、新聞「日本」では記者として随筆を連載するなど病身ながら活躍していた。俳句欄からは新人が輩出され、いわゆる日本派が風靡した頃である。
「日本」の初任給は15円、白米一斗が一円に足らぬ時代であったが、それでも親子三人の家計は苦しく、碧梧桐に窮状を洩らした手紙なども残っている。
「12月」の季語が一句全体に沁み入るように利いていて、子規の境涯をはなれて、現代の俳句としても、その情感はしみじみするものである。
枯菊と言ひ捨てんには情あり 松本たかし
こういう俳句を読むと「うまいもんだなあー」と嘆息するばかり。枯菊ながら、その情趣のあるところ、やはり言い得て妙というほかない。観念的な表出に見えて、観察眼が行き届いていなければ、こうは詠えない。昨日今日見て、てっとりばやく仕上げたものではないのである。
菜園の縁などに、はなやかに咲いていた菊の一とむら二たむらも12月に入ってさすがに枯れが目立ってきた。それでもその色彩には、盛りの頃には見いだせなかった綾が織りなされて、いとしく思われるのである。
高濱虚子の<枯菊に尚ほ或物をとどめずや>も同類の句であるが、私にはたかしの句の方が好ましい。
鵯のそれきり鳴かず雪の暮 臼田亜浪
大正9年、亜浪40歳の句。厚木市中津の句会場での作品。
鵯の鋭い声が降りしきる雪の中に一声ひびいた。待つとなく次の一声に耳を澄ましていたが、もう二度と鳴くことはなかった。雪の日は暮れていくばかりである。
「雪の暮」に何かしらかぶさってくるような重たくも暗い寂寥感が込められているようである。
水のめば葱のにほひや小料亭 芝不器男
忘年会のシーズン、こういう体験は庶民の誰もが思いあたる。
裏さびれた路地の小料亭は、気軽で安上がり、その上に、鍋料理に欠かせられない葱がたっぷり盛られていたことであろう。板前さんの忙しさも想像される。
それにしても「小料亭」という納め方はさすがに不器男のもの。「小」という一字の醸し出す味わいが「葱」にぴったりである。
このとき不器男はまだ大学生であった。
現代俳壇の彗星と言われる「芝不器男」。不器男は、論語の中の「子曰く、君子不器」(しのたまわく、くんしうつわならず)から父親が名づけた本名である。一つの用にとどまる器であってはいけない、偏らず全人的完成をめざすようにという願いであったろうか。
惜しくも不器男は、昭和5年2月24日、27歳で夭逝した。