夕日燦燦
夕日とびつく出来立ての藁塚に
一陽来復夕雲に金の縁
山の端に夕月にじむ寒念仏
日が暮れてよりの明るさ茶の花に
春障子すこし開きたるまま暮るる
『畦の木』の全編にゆき渡っているのはたっぷりとした日差しである。わけても、夕日、夕暮に呼応する作者の思いは深い。 一集に「夕」の一字は単純に数えても三十数個はあるだろうか。
今の今までここにあったものが、もうここに無くなるという時の移ろい、生きることのなつかしさを知る作家は刻々に心を込めずにはおれない。
藁塚に射す夕日はまるで生きもののように華やいでいる。夕映えの雲は明日への願い、自然と交流して生きる人々の暮らしは祈りに満ちている。農事から帰ると、茶の花は金色の蕊をかがやかせてくれる。障子は陰影に富んでいる、よし春の倦怠があろうとも、少しの風通しに慰められる。
ふんはりと峠をのせて春の村
泥んこの道をあつめて春祭
畦の木に風のあつまる穀雨かな
五月くる小さな村の大きな木
雪婆ふはりと村が透きとほる
川音の夜に入りたる蚊遣かな
火吹竹吹いてはふやす山の星
「ふんはりと」、一句全体を包み込んで、一村はあたたかい。修飾語が卑近なものでなく、スケールの大きなものに及んでいるのは体験のゆたかさにほかならない。通り一遍の体験ではなく、作者のものになりきるまでのゆるぎない時間の集積が思われる。
春泥にまみれて笑い転げる村人の元気。穀雨のもたらすめでたさの平穏。満目みどりの到来は童話のように明るい。そして初冬、青白い光を曳く雪婆の命は、村の年寄のそれのように透明である。まこと風土の四季を詠いあげて間然するところがない。
ことに蚊遣の闇の艶やかさ、火吹竹の煌めくなつかしさは余情たっぷりである。
俳人協会賞を受賞された第四句集『野面積』、それに続く『畦の木』も又、飯田龍太の「俳句は野面積に似ている」という名言を思い起こさせる。
かの謀将、直江兼続も自ら指揮をとって築き上げたという石積の工法。天然石のみをバランスよく組んだ素樸と堅牢は一集の真髄にかよっている。
鳥の糞まみれに涅槃したまへる
滝壺の中より滝の立ち上がる
十一面もて秋惜しみ給へるや
月明のわけても猪のぬた場かな
「涅槃」、「滝」の雄々しさに加えて、「秋惜しむ」の繊細。「わけても」は龍太の散文の口癖であった。
ふと、〈涼風の一塊として男来る 龍太〉が口を衝いて出た。
涼しさの男は、黛執氏その人ではないだろうか。
(2009年5月号「晨」 第151号所収)