虫干や子規に聞きたき事ひとつ 大峯あきら
私の愛する俳人二人の出会いに快哉を叫んだ一句です。
明治三十五年、激痛に煩悶する子規に某氏から手紙が来ました。「人力の及ばざるところをさとりてただ現状に安んぜよ現状の進行に任ぜよ痛みをして痛ましめよ。号泣せよ煩悶せよ困頓せよ而して死に至らむのみ」という主旨に、余の考えも殆どこれに尽きると子規は感銘します。
これに触れて宗教学者大峯顯は、手紙の主は仏教改革者の清沢満之であろう、本物は本物を知るということだと書いています。号泣する子規は、もう如来と一緒にいたというのです。
清沢が全身全霊をこめて自らの言葉で人間存在の真実を語ったに違いないという推察は、大峯顯が実践されていることにほかなりません。
数年前、病苦にあった俳人田中裕明は、「いのちが生きることを肯定しているから、あなたはなにもしなくていいよ」という氏のひと言に救われました。瞬時にこれを了解した俳人は、いくら感謝しても足りないという言葉を残しています。本物は本物を知るということを、ここにも見出して思い出すたびに泣けてきます。
さて、俳人あきらの作品は平明にして大きく、奥行きがあります。季語と助詞の確かさがもたらすものでしょう。去年一年間、ネット上に大峯あきら俳句日記を拾い続けて、そのことを再確認しました。
そして何より、私意を離れながら、俳人大峯あきらの心が深く入っていない句はないこと、命を賭する静けさに打たれるのです。
(2009年3月号「晨」 第150号所収)