昌子365日(自平成29年9月1日~至9月30日)
       9月21日(木)       落ち合うて府中の昼や曼珠沙華

       9月20日(水)       壁ぢゆうに落書台風来つつあり
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       9月19日(火)       蚊に喰はれどほしの子規の忌なりけり
         
       9月18日(月)       としよりの日のまつさをな窓の色

       9月17日(日)       木は朽ちて石は穿ちて水の秋

       9月16日(土)       ちかぢかと寄れば色ある草の花
 
       9月15日(金)       いなり坂にはかに急や曼珠沙華
 
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       9月14日(木)       足もとにたまに手もとに秋の蝶

       9月13日(水)       蝉鳴いて蟻は走つて蓮は実に 

       9月12日(火)       秋の蠅輪ゴム跨いで来たりけり

       9月11日(月)       錠前に錆をつくしてつづれさせ

       9月10日(日)       露けしや城垣高くビル高く

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       9月9日(土)       大方は墓場の寺や猫じやらし

       9月8日(金)       雨の来て笑はぬ案山子なかりけり

       9月7日(木)       濠にして沼めく秋の蓮かな

       9月6日(水)       あばらやの隣あばらや白木槿

       9月5日(火)       秋の蚊のここは千代田区九段下

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       9月4日(月)       拳骨に載せて飛蝗を見せらるる

       9月3日(日)       野分過ぐ花屋の前の豚カツ屋

       9月2日(土)       木のそよぎやまざる二百十日かな

       9月1日(金)       めいめいのことして一家爽やかに 
       
        
# by masakokusa | 2017-09-30 23:59 | 昌子365日 new! | Comments(0)
『青草』第二号・2017年秋季号
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 結社誌「青草」は船出したばかり。
 その第二号に、図らずも草深昌子自らの句集『金剛』の特集が組まれることに、いささか躊躇った。
 でも、今はこれでよかったと感謝しています。
 皆さまから寄せていただいた鑑賞文の数々、これは私への激励だけではなく、我らが「青草」会員の一人一人にとりましても、得難く学ばせてもらえるものであることを、確信したからです。
 先日ふと、三木清「人生論ノート」を再読しました。
 「死者が蘇りまた生きながらえることを信じないで、伝統を信じることができるであろうか」は、もとより、
 「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである」に、はっとさせられました。
 だからこそ、俳句という芭蕉の文学を一生懸命に学ぶ価値と喜びがあるということでしょう。
 希望をもって生きる者はいつだって若い、その心意気で、静かにも明るく歩んでいきたいと願っています。
                                   
                草深昌子

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草深昌子句集『金剛』特集


  草深昌子句集『金剛』書評       岩淵喜代子

      文体を獲得した作家          

 
 俳句の未来はどうなるのかという話題は、絶えず浮上する。しかし、云いつくした論を漉し器に流し込んでみれば、最後に残るのは写生しかないのである。
 芭蕉の「即刻打座」も、虚子の「客観写生」・「花鳥諷詠」にしても、この写生ということばを下敷きにしなければ成り立たない。俳句だけではない。文芸のすべては、この手堅い写生を駆使することこそが基本なのである。
 草深昌子さんの俳句は、まずはこの写生力という点で際立つ俳人だとかねがね思っている。

   秋風のこの一角は薔薇ばかり
   綿虫に障子外してありしかな
   対岸の椅子に色ある残り鴨
   一束は七八本の苧殻かな
   あめんぼう大きく四角張つてをり

 一句目(秋風の)は、ゆったりと平らな地形が広がる中に突然薔薇園が現れる。秋風の吹く虚の景から薔薇園を焙り出したような巧さがある。
 二句目(綿虫に)は誰でも知っているように小さな虫である。
人がそれに目を止めるのは、純白の綿を纏ってふわふわ飛んでいる様子が詩情を誘うからだ。
(綿虫)に続く(障子外してありしかな)によって、真白な綿虫がより真白く、小さな綿虫が大きく見えてきて、不思議さを誘うのである。
 三句目(対岸の)もまた淡々と視覚が捉えた景である。対岸という漠とした景に椅子を置いて、さらにその椅子に色がある、と叙述したときに風景の焦点がきちんと定まったのである。
そうして椅子と残り鴨に、有るか無きかの響き合いが生まれはじめて景が語り始めるのである。
 四句目(苧殻)は盆の迎え火や送り火のために用意されたもの。
買い求めてきた苧殻を眺めながら、これが彼岸のはらからたちの迎え火になるのかと思いながら眺めていたのが感じられる。
その想いが、一束が七八本だという極めて沈静な、そして極めて即物的な叙述に置き変わった。
 五句目も視覚が捉えた発見である。四角張っているのはその輪郭ではないのである。
身体から伸ばした長い四本の足が押さえた足先を点として結んだ空間なのである。
句集にはこの作者独特の視覚の発見が随所にある。

   七夕の傘を真つ赤にひらきけり
   蝶々の飛んでその辺みどりなる
   いつかうに日の衰えぬ梨を剥く

 さりげなく読み進んでいく中で、ふと意表を突かれて立ち止まるのが一句目である。
 普通に言えば赤い傘を開いたという叙述なのだが、その赤いという形容詞を動詞的な使い方をしているのだ。
 そうしてこの作者が詠むと(傘を真つ赤にひらきけり)となる。
 まるで開くたびに様々な色に変化させられるかの如く。この巧みさは、七夕の季語斡旋からはじまっている。
 この季語によって、いよいよ傘の赤さが際立つのである。
 作者の文体と言える表現方法である。
 二句目の蝶々の飛ぶ先々がみどりだとする断定、三句目の梨を剥くにいたる叙述、ことさら変わっているようにも見えないのに独特な文体である。

   一枚の朴の落葉を預かつて
   秋の蟻手のおもてから手のうらへ

 朴の句は、思わず口元が緩んでくるような面白さがある。
 冬になると大きな朴の葉が根元に散乱していることがある。
 そんな朴の一枚が、誰かの手から作者の手に預けられた。
 ただそれだけのことなのだが、預かった手にある大きな朴の葉がさらにクローズアップされて、置くことも仕舞うことも出来ない戸惑いが(預かつて)に発揮されている。
 その、対象物を拡大して提示させているのは、二句目の蟻にも言える。
 句集を開きながら、しばしば巧みな作り手だなーと感心するのである。

   蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり

 最後になってしまったが、私の愛唱してやまない一句である。
 小さな生き物を覗き込んで、その生き物の動きを追う。
 静寂な視線で見据える無心な作者がいる。その無心さが見事である。


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# by masakokusa | 2017-09-30 23:59 | 俳句結社『青草』NEW! | Comments(0)
「青草」第二号・草深昌子句集『金剛』特集 ・ 一句鑑賞
  
  大木あまり
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 草深昌子さんのことを、私はひそかにマダム!と呼んでいる。
 それは、洋服のセンスが抜群に良くて芦屋のマダムのようだからー。
 そのマダムが句集『金剛』を上梓された。
 写生の昌子と呼ばれるだけあって、
 作句の修練によって培われた写生眼の確かな句が随所に見られる。
 格調の高い句集である。
 あれこれ選に迷ったが、
 独特の視点と遊び心のある二句を鑑賞させていただくことにした。

   七夕の傘を真っ赤にひらきけり     昌子
 
 七夕とは、五節句の一つ。
 天の川の両岸にある牽牛星と織女星が、年に一度会う七月七日の夜、星を祭る行事のこと。
 星祭は子供でも知っている庶民的な行事だが、よく雨が降る。
 この句は、「傘を真っ赤に開きけり」で雨の七夕の情景を簡潔に表している。
 傘の色が白や水色では付きすぎだし、趣が無い。
 「真っ赤に」に艶やかさがあるのだ。
 シンプルに詠んで鮮烈な印象を与える七夕の句である。


   銀蝿を風にはなさぬ若葉かな     昌子
 
 強風で動きの取れない銀蝿が、青い葉にしがみつくようにじっとしている。
 それを発見した作者は、対象を凝視することでこのような一句に仕立てた。
 着眼点の良さもさることながら、軽妙酒脱。
 物を見てその「物」に語らせつつ作者の遊び心を感じさせる。
 なんとも「風にはなさぬ」の措辞が艶だ。




   榎本 享
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   露けしやかたみに払ふ蜘蛛の糸     昌子

 草深い径を誰かと歩いていたのでしょう。
 仲間の髪にくっ付いている蜘蛛の糸に気づいてつまんであげた。
 「あら貴方にも」と笑いつつ手が伸びて、肩先の糸を払ってくれる。  
 そんな誰にでも経験のある一瞬を「露けし」という季語が、
 しっとりと描き出す。
 ささやかな出来事をも心から楽しめる余裕が、昌子俳句の豊かさである。
 「かたみに」という仮名書きの言葉に、その響きに、人の温もりが感じられる。


   夏館ものの盛りは過ぎにけり

 籐椅子も簾も飴色の艶を持つ親しい味わい。
 ベランダから望む木々の緑も、その枝を吹き渡る風も晩夏の風情。
 視野に入るものだけでなく、その家の空気も自身の体調さえも、盛りを過ぎたという思い。
 寂しさではなく、全てを肯定し、受容する大らかさなのだろう。
 「夏館」をこんな風に詠んだ作品に初めて出会った。
 読み手に対する信頼が、省略を利かせた深みのある作品を生み出すのだろう。
 昌子さんは本当の大人である。
 純な子ども心を持ち続けている稀有な大人である。

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  藤埜まさ志


   
   小春人ただ道なりに行けと言ふ     昌子
 

 吟行にでも出掛けていて途中で道を尋ねたところ
 道なりに行けば着きますよと教えられたという。
 解かりやすいようだが、芭蕉の実質的に辞世の句とも言われている、
 「この道や行く人なしに秋の暮」の句に呼応しているとも思える。
 俳聖芭蕉の「この道」とは当然俳句の道だが、その言葉に昌子さんは、
 「自分は自然体で道なりに俳句の道を歩むだけです」と応えているかのようだ。
 それは「外の風物とわれわれ自身をも貫く宇宙のリズムに従え」
 と説く師大峯あきらに繋がる姿勢なのであろう。
 小春人とは大峯あきらであり宇宙のリズムそのものなのだ。
 中村草田男の句に「真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道」がある。
 白痴とはドストエフスキー的な聖白痴をいうが、
 その指さす「真直ぐ」は己の信ずるところを真直ぐにという己が勝った意味合いが強く、
 肩肘張っている。
 ニーチェ的主知的西洋風であり、
 「道なり」とする昌子さんの東洋的な柔らかい態度とは少し違うように思えて興味深い。
 対象へ注ぐ柔らかく独自の視点と把握、無理のない表現、
 そうだからこその溢れんばかりの詩情、「金剛」は昌子俳句のこれまでの見事な到達点である。
 今後「道なり」の昌子俳句の一層の成熟から目が離せない。

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  岸本尚毅



   晩秋や薔薇の疎らに明らかに     昌子


 「疎ら」「明らか」というありきたりな形容が無造作に使われている。
 読者は、晩秋の薔薇の寂しげな風情をすんなりと感得出来る。
 この句集の一つの読みどころは、力まずに使った形容語の巧さである。
 たとえば「やはらかになつてきたりし踊の手」の「やはらか」は、
 だんだんこなれて来た踊り手の動きをよく表している。
 「だんだん」などという野暮な副詞を使わずに、
 動詞と助詞・助動詞だけで「なつてきたりし」としたところも巧い。

 「蜂来たり秋の日傘に狂ほしく」の「狂ほしく」も、じつにピッタリの形容である。
 「狂ほしく」が生きるためには、
 上五の「蜂来たり」が無造作であること、また、
 「秋日傘」ではなく「秋の日傘」であることなど、
 言葉が周到に選ばれていることが必要である。 
 「蜂が来る秋日傘へと狂ほしく」だったら、この句は全然ダメなのである。

 「甘茶仏少しく肥えておはしけり」の「少しく肥えて」も良い。
 だから「おはしけり」という少し気取った言葉が生きるのである。

 「鯵刺や紙の如くに白く飛び」の「紙の如く」はもちろん巧いが、
 「白く」を連用形で使ったところがもっと巧い。
 「鯵刺の白きが紙の如く飛び」ではイマイチなのだ。
 俳句は技術や巧さより「こころ」や人間性が大切だという声も聞くが、
 もしかすると、そういう物言いは綺麗ごとに過ぎないのかもしれない。
 いわゆる「へたうま」も含め、俳句は巧ければ巧いほうがいいと思う。

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 中西夕紀



   金剛をいまし日は落つ花衣    昌子
 

 金剛とは、奈良県と大阪府の境にある金剛山のことで、
 金剛山地の主峰であり、標高一一二五メートルの美しい山だ。
 花の吉野山から大阪の方を眺めると、
 ひときわ雄々しいのがこの山で、夕日の山容の美しさは格別である。
 草深さんは、毎年大峯あきら先生と山本洋子先生を中心に集まった晨の同人達と、
 花の時期の吉野山へ登っている。
 吟行コースは、桜の開花状態や宿によって変わるのだが、
 観光客の歩くコースはなるべく通らないで、
 畑の中や、細い山道を自由自在に歩き回る。
 そして、そこで生活している人達との会話を楽しみ、
 時に庭を見せてもらうこともある。
 私も晨に参加していた数年間この吉野吟行にご一緒させて頂いた。
 草深さんは非常に多作な作者である。
 句会場に着くと、大学ノートを開き、
 一行も空けずに小さな字で、句を一心に書き続ける。
 やがて、ノートの開かれたページは余白がなくなり、
 その中から十句短冊に書き写されるのである。
 他の人達はというと、歩き疲れてうたた寝をしていたりするのだが、
 草深さんだけはいつも黙々と作り続けていたように記憶している。
 俳句にも関東風と関西風がある。
 関西風ははんなりした風合いで、
 関西生まれの草深さんの句は、典型的な関西風であり、
 流麗で、濡れた艶を見るような語感である。
                 

(平成29年8月21日発行「青草」第2号所収)
# by masakokusa | 2017-09-30 23:06 | 俳句結社『青草』NEW! | Comments(0)
課題詠   兼題=紅葉・露      草深昌子選
   特選

   家族みな同じ紅葉の樹を愛す     大槻一郎
 
     作者の真情が読者に力強く響いてくる。
     逆に言えば、紅葉に輝かされている家族の幸せではないだろうか。


   朝露をついばんでゐる雀かな     天野桃花
 
     雀の可憐な仕草によって、朝露を宿したあたりが清らかに光りはじめる。
     生き生きとした命の夜明である。
 

   露の子の歩みのらくらしてゐたり     池上李雨
 
    「のらくら」には凛とした露のイメージが覆るような微笑ましさがある。
     露の世のわけてもいじらしい子供。

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   秀逸 

   露の世に兄弟といふ縁かな      川西恭子
   紅葉して闇深くなる箱根山       小堀紀子
   鞍馬駅まづは紅葉の濃かりけり    中岡ながれ
   虫くはへ鶏の走れる紅葉かな     山内利男
   露けくて吾輩といふ顔の猫       西川章夫


   入選

   弁当を配ることより紅葉狩        加藤あや   
   抜きんでて燃え立つ漆紅葉かな     碓井ちづるこ
   水落ちて清流となり紅葉山       中野陽典
   洛北を丹波に抜けてなほ紅葉     中村昌夫
   校庭に炊出訓練露しとど        二宮英子
   他70句省略

(平成29年9月号「晨」第201号所収)
# by masakokusa | 2017-09-30 21:20 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
選後に ・ 大峯あきら   山本洋子
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   大峯あきら選

   巻頭

   夏鴨の鳴いて日中を飛びにけり    草深昌子

 春が来ても北へ帰らないで、そのまま残っている夏の鴨を通し鴨とも言う。
そんな夏の鴨を見かけるのは涼しい木蔭なのであるが、これは日中の空を鳴きながら飛んでいるところである。
鳴き声で捉えたところが面白く、どこか濃い季節感がある。
〈鮎食うて相模も西に住み古りぬ〉
関西から関東に嫁いで相模の国の西に住んでいる作者。
鮎の季節が来ると西国のことを思う。


   山本洋子選

   次席

   木斛の花散るまるで雨のやう     草深昌子

 木斛は椿科のごく小さな五弁の花が咲く。
その花の散りようが「まるで雨のやう」と感じた。
散りざまを素直にのべてあるだけだが、一瞬感じた言葉が美しい。
〈鮎食うて相模も西に住み古りぬ〉
ただ相模の西に住むのでなく〈住み古りぬ〉で〈鮎を食う〉人が根強く住みついている感をもたらしている。


(平成29年9月号第201号「晨」所収)
# by masakokusa | 2017-09-30 13:43 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
『はるもにあ』客人居 (まらうどゐ)     草深昌子
 客人居『雨のやう』
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      雨のやう         草深昌子


   木斛の花散るまるで雨のやう

   松をまへ楓をよこの花あやめ

   炎帝の蝗をつかみそこねたる

   蟻の列見てゐて息のととのふる

   ふつと日の林に落ちて涼新た

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  ☆はるもにあ集を読む/第61~62号より      草深昌子




   人の日やゴッホを見つめ見つめられ    番匠博雄

 ゴッホの絵はデフオルメであっても即物写生に違いない。
だからこそ見るほどに見つめられてくるきらめきがたまらないのだろう。
ゴッホに向き合うことと、人日という七種を祝う節句とは無関係でありながら、必然のようになつかしい詩情に引き寄せられている。


   黄を帯びて穴ひとつなき障子かな    満田春日
 
さんざんに日当たりに晒された障子、穴の一つもないという、ずんべらぼうのさまがあたたかである。  
陋屋であろうか、こんな穏やかな障子のありようが、人の世に安心をもたらしてくれるのである。


   寒晴や踏切開いて馬通る     松山ひろし
 
 あるがままを言葉に置き換えることのすばらしさ。
一見そっけないとも言える詠い方が、馬の速度に叶っていて、思わず顔がほころんでしまった。
野にあらずして巷の踏切を行く馬のさまは、寒中の大晴を伝えてあまりある。


   初場所や固く緊まりし蛇の目砂     鈴木かこ
 
 無駄のない、それこそ緊と引き締まった句には初場所の厳粛が漂っている。
蛇の目という言葉は神聖なる鋭さを思わせるが、力士の今年にかける意気込みをうかがわせるものでもある。


   法蓮草ポパイを知らぬ子に食はす     満田春日
 
 「あんたは菠薐草が足りないんだ」と主治医に叱られ、しょげていたその日、この句に出会って、いっぺんに元気をいただいた。
ポパイの菠薐草パワーがそのまま俳句の迫力である。
「食はす」という、愛情たっぷりの措辞にこそ救われたのだった。


   神足三丁目さへづりが弾けとぶ      川崎雅子
 
「シンソク」、そう神の足下なら、神通力さながらの囀であろうことよと、一読にして感嘆。 
二読してはたと、ここは京都府長岡京なる「神足」ではなかろうかと膝を打ったのだった。
しばし都が置かれた「コウタリ」ならではの「弾けとぶ」が、いっそう頷かされるのであった。
何れにしても固有名詞だけでもって美しい囀を聞かせるとは、奥ゆかしくも大胆。


   盆梅やたまに客来る煎餅屋      大木明子
 
 誰しもに思い当たる老舗の佇まいが既視感をもって見えてくる。商売っ気のない、ひんやりとした薄暗がりの空間。盆梅は格調高く座っている。


   切るたびに俎動く八つ頭      黒田はる江
 
 事実その通りを詠いあげてダイナミック。カチンコチンの手に負えないものの実体。
飯島晴子の〈八頭いづこより刃を入るるとも〉に勝るとも劣らない。

(2017年9月号『はるもにあ』(満田春日主宰)所収)



   
# by masakokusa | 2017-09-29 23:59 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
草深昌子句集『金剛』・書評抄録(その4)
☆ 『浮野』(落合水尾主宰) 平成29年9月号

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    現代俳句展望       太田かほり


   かりそめに寝たるやうなる寝釈迦かな     草深昌子
   奥つ城のほかは春田でありにけり        〃
   さへづりやたうとう落ちし蔵の壁          〃

 句集『金剛』より。
一句目。釈迦入滅の日とされる二月十五日には寺では涅槃図を掲げて法要が営まれる。涅槃図は中央に大きく北枕の釈迦が描かれ、周りに仏弟子や鳥獣が嘆き悲しむ様子が描き込まれている。
今しも息が途絶える寸前か、その直後か。だが、口を開け、歯を見せて大泣きする衆生に比して、釈迦は穏やかに横臥して苦しみなどは微塵もなく、老残もなく、衰弱している様子もなく描かれている。涅槃像もそのようである。
今にも起き出しそうな健やかそうに描かれているのを「かりそめに寝たるやうなる」と捉えた作者の目を冷静すぎるとはいわない。
そのように横臥することが釈迦の最後の説法だったのではないだろうか。また、宗教画を描く側の心だったのではないだろうか。
いかなる釈迦の姿からも人々は安らぎを期待するものである。涅槃図あるいは涅槃像をリアルに描写しながら単に写生にとどまらず作者の心の色が施されている。
すなわち泣き叫ぶ衆生への共感から生れた句である。

二句目。上代語「奥つ城」は奥まった場所にある区域の意で、神や霊の鎮まっている所、墓をさす。場所は山裾にもあれば一面に広がる田の中や人家の脇にもあり、それぞれの土地との共存の様子がうかがえる。
田圃のど真中にあって農作業にはどんなにか障りになるかと思う一方で、大切にその一角が守られていることには感動を覚える。
先に墓が存在し、墓を優先する暮しがそこにあるのだ。墓所はほんの一部を占め、その他は春田という単純極まりない構図から逆に人々の生活が見えてくる。
田は耕され、鋤き返され、水が張られ、次の農作業への準備が進行中である。そんな最中に冠婚葬祭はじめ大小の人事も進んでいくのだ。

三句目。白壁、藁壁、土壁など壁の素材によって推し量られるものがあるが、その壁が崩れる事態に至ったところは壁に流れた歳月や衰退への物語が見えてくる。
「たうとう」は成り行きへの予見があったことを示し、遅かれ早かれ壁は落ち、蔵そのものの行く末も見えていることが分かる。
昨今の天変地異などによるものではない人の世の緩やかな推移である。
「たうとう落ちし」であるからずっと見続け、最終段階を見届けたという気持ちだろう。こうした人の世に対して自然の営みは健在である。
囀りは種の繁栄の証である。明暗を一枚の画布に収めたような構図である。

# by masakokusa | 2017-09-29 22:57 | 第3句集『金剛』NEW! | Comments(0)
角川『俳句』9月号
 
  俳人スポットライト  
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        熊 本       草深昌子(青草・晨) 
 


   明易き熊本城の崩れやう

   人の立つやうに木の立つ安居かな

   夏鴨の鳴いて日中を飛びにけり

   梅雨茸の脂のやうなるもの吐ける

   開きては閉ぢては扇ものしづか

   白南風や城をかためて樟大樹

   たてがみといふも馬刺しの米焼酎



  昨年11月、第三句集『金剛』を発刊し、今年二月に、結社誌『青草』創刊の運びとなりました。俳句を始めた頃に、〈どの子にも涼しく風の吹く日かな 飯田龍太〉に出会い、
四十年経って、〈涼風のとめどもなくて淋しけれ 大峯あきら〉に出会いました。
 尊敬する師をもつ幸せ、俳句連衆の皆さまに鍛えていただける幸せを今さらに噛みしめています。


(2017年9月号角川『俳句』所収)
# by masakokusa | 2017-09-02 11:39 | Comments(0)
昌子365日(自平成29年8月1日~至8月31日)
      
      8月31日(木)      秋風の仙人掌にして大樹なる
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      8月30日(水)      ばて気味の臭木の花の臭ひかな

      8月29日(火)      切通し行くとき秋風のつめた

      8月28日(月)      幹高く枝の少なき蜻蛉かな

      8月27日(日)      くじ引きのゑのころ草を引きあつる 

      8月26日(土)      川なりに曲がりて秋の石の道
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      8月25日(金)      蝶々の初穂を飛んで黒ずみぬ

      8月24日(木)      蔭を行く秋の日傘の骨張つて 
 
      8月23日(水)      布薄く纏うてゐたる秋思かな

      8月22日(火)       盤石に八月の花こぼるるよ

      8月21日(月)      早稲の香や戸塚もここは舞岡の
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      8月20日(日)      みづうみの縁は並木の榠樝かな

      8月19日(土)      秋風の海を見てゐる喇叭飲み

      8月18日(金)      君待てど君来ぬかなかなかなかな

      8月17日(木)      盆過ぎの雨の寒さとなりにけり
     
      8月16日(水)      新涼や船の出を待つ小半時
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      8月15日(火)      魂送り鳥の百羽のこゑそろふ

      8月14日(月)      星流れ波止場の壁に波止場の絵 

      8月13日(日)      ことのはのみな哲学や生身魂

      8月12日(土)      秋風の薔薇のやうなる匂ひかな

      8月11日(金)      秋の虹スーパーあずさ号に即く

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       8月10日(木)      床にして市松模様秋めきぬ   

       8月9日(水)      秋蝉の木蔭に入ればすぐに風

       8月8日(火)      ふっと日の林に落ちて涼新た

       8月7日(月)      髪刈つて襟足青く秋立ちぬ

       8月6日(日)      逝く夏の港に拍手起りけり

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       8月5日(土)      芭蕉布の男心に行きちがふ

       8月4日(金)      蝉の声たまに蓮の風に乗り

       8月3日(木)      なれ鮓や白提灯に風の吹く

       8月2日(水)      ピラミッド校舎は何処蝉しぐれ

       8月1日(火)      蟻塚の傍に蟻塚もう一つ

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# by masakokusa | 2017-09-01 20:35 | 昌子365日 new! | Comments(0)
草深昌子句集『金剛』・書評抄録(その3)
 
 ☆ 『耕』 2017年9月号 (加藤耕子主宰)

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   句集紹介

   草深昌子句集『金剛』(2016年11月21日 ふらんす堂)

  
「晨」(大峯あきら代表)同人。「青草」主宰。
  句集『青葡萄』及び『邂逅』に続く第三句集。平成15年以降の句を収録。
  句集名は金剛山から名付けた。著者はあとがきで「美しい山桜の宿で、庭下駄に下り立って、
  晨の皆さまと共に、ただ黙って金剛山に沈んでゆく美事な夕日を眺めたことは
  生涯忘れることはないでしょう」と述べる。

    どこにでも日輪一つあたたかし
    耕して大日寺の裏に住む
    あめんぼう大きく四角張つてをり

                                 和出 昇



 ☆ 『泉』 平成29年8月号 (藤本美和子主宰)
   
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  俳句の扉     藤本美和子抄出

    船赤く四万六千日を行く    草深昌子『金剛』




☆ 『松の花』 平成29年8月号 (松尾隆信主宰)

  現代俳句管見       
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『金剛』草深昌子(晨同人)第三句集

   赤子はやべっぴんさんや山桜

 句集名は大阪・奈良府県境の金剛山に拠る。
 恒例の吉野の桜吟行の宿で連衆と金剛山に沈んでゆく美事な夕日の眺めたことは生涯忘れないという。
 〈遠く来て日高に着きぬ花の宿〉
 〈うぐひすは上千本にひびくかな〉
 〈金剛をいまし日は落つ花衣〉
 筆者は桜の吉野山を下から上千本迄歩いたが、山桜の幻想的な美しさに魅了された。
 満開の桜のもとで赤子は殊の外愛らしい品のあるべっぴんさんだったのだろう。

   真間の井の蓋に木の実の数へられ

 
下総国葛飾郡真間にいたという万葉集に詠まれた伝説上の美女手児奈。
 多くの男子に言い寄られ、煩悶の末、井戸に投身したという。
 所縁の井戸の蓋に木の実が幾つか落ちている。昔を偲べは、今も自然の営みは連綿と続いている。
 箱根の早雲寺の〈松蝉や宗祇法師の墓どころ〉の句も然り。
 〈きらめくは秋暑の蠅の背中かな〉
 〈石蕗の花さかまく波をよそに咲く〉
 などは句材をうまく詠みこんでいる。
                                   松田知子



☆俳句雑誌 『澤』 平成29年7月号   創刊17周年記念号(小澤 實主宰)

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窓 俳書を読む      冬魚

   
草深昌子さんは1943年大阪府生まれ。
   現在「晨」同人、「青草」主宰。
   鹿火屋新人賞・同奨励賞受賞。第三句集。

    秋の蟻手のおもてから手のうらへ
    硝子戸と障子のはざまあたたかし
    あめんぼう大きく四角張つてをり

 一句目。
 じっと見る、見続ける。飽くことなき観察によってリアルな景が立ち上がる。
 手のひらに居る「秋の蟻」の鈍い動き。もぞもぞした感触がたまらなく思い出される。
 二句目。
 「硝子」を透過した春の光が「障子」の木枠と紙と「はざま」の空気をあたためる。
 家の隙間に溜る温みこそが家のぬくもりとなるのかも。
 ふと、親の家を思い出す。

  2016年 ふらんす堂 2700円(税別)

# by masakokusa | 2017-08-31 23:59 | 第3句集『金剛』NEW! | Comments(0)