昌子365日(自平成29年11月1日~至11月30日)
      11月21日(火)       引つ掛かるところかまはず木の葉かな      

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      11月20日(月)       雲水の冬あたたかにつぶやきぬ
      
      11月19日(日)       一茶忌のもの食ふ列につきにけり

      11月18日(土)       大熊手買うて背中の突つ張れる

      11月17日(金)       町を行くやうに墓地行く冬うらら
      
      11月16日(木)       鈴買うて十一月の巣鴨かな
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      11月15日(水)       生立ちのどこからかしら隙間風

      11月14日(火)       神発ちて曙杉は曲がらざる
      
      11月13日(月)       踏みごたへあるは櫟の落葉かな

      11月12日(日)       アカペラの冬の灯しを明かるうす

      11月11日(土)       墓打つて弾んで苔に木の実落つ

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      11月10日(金)      小綬鶏のただひと声の初時雨

      11月9日(木)       沢へ出て沢の音聞く小春かな

      11月8日(水)       蜂の翅たたみあぐねて石蕗の花

      11月7日(火)       今朝冬の水無川の水綺麗

      11月6日(月)       月影の園や一舟浮かびたる
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      11月5日(日)       団栗の落つる鼓動を聞いてをり

      11月4日(土)       戸を引けば鈴鳴りにけり十三夜

      11月3日(金)       紅葉して音の大きな古時計
      
      11月2日(木)       雨を来て石鼎庵の白障子
 
      11月1日(水)       川なくて渡し跡とや末枯るる

# by masakokusa | 2017-11-30 21:06 | 昌子365日 new! | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年10月       草深昌子選

10月は「青草」吟行に於ける佳句を逍遥いたします。

先ずは、神奈川県座間市にある「谷戸山公園」です。




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   切株にむっちり山の茸かな       山森小径

 谷戸山公園は縄文時代から人の暮しがあったところで、森あり谷あり池あり林ありという風土がそのまま残っています。切株に茸が生えていたという、ただそれだけのことですが、ここには里歩きの思いがけぬ楽しさが驚きをもって受け止められています。「むっちり」もさることながら、「山の」と続けるあたりにもスキがありません。食べられそうにないシロモノであっても茸はやっぱり山の輝きを放っています。




沢胡桃落ちて水鳥驚かす       神崎ひで子


 この句も「水鳥驚かす」と言ってますが、誰よりも作者が驚いたのではないでしょうか。

 単なる胡桃でなく「沢胡桃」と認めたところが見事です。

 サワクルミという、文字通り爽やかな語感が、よき音となって水鳥に響くのです。

一瞬を言い止めて、綺麗な水輪が余韻として残ります。



浮島に草の明るき秋の昼       奥山きよ子


 吟行は生まれて初めてという作者にこんな佳句が生まれました。

 池の中には小さな浮島がありました、そこで「浮島」を素材にした句はいくつもありましたが、浮島に生い茂った草を見届けたのは作者だけです。

 雨の中にあっても、作者の気持ちがとても晴れやかであったことを、私は一番喜びました。

 素直な発見が、「秋の昼」を物語ります。




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   標本は蛇の衣や小鳥来る       二村結季

 小鳥たちは山から里へ下りてきたのでしょう、高い木々のどこからも、その明るい声を震わせていました。

 作者はその喜びをもって、句会場となったパークセンターに入りました。

何とそこには、超長い蛇の抜け殻の標本があったのです。

標本という古くも遠い過去のものに、小鳥来るという現在ただ今の明るさが吸い寄せられるように合体したのです。


 

掛稲や雀も来ぬか雨の中       石原虹子


 「雀も来ぬか雨の中」という調子の張った言い方はそう容易すくできるものではありません。作者の集中力の高さが思われます。

刈り取った稲は乾かすために天日に干すのです、だが今日は雨に濡れしきっています。

そんな哀れな掛稲になり切ったような気分がひしひしと伝わってきます。


 

浮島の向うに鴨の三羽かな       潮雪乃


 一羽でも、二羽でもいいのですが、何故か浮島の向うなら、三羽がちょうどいいような気がします。

何でもない光景を具体的に示すことが、俳句の要です。



茶の花の垣根の先や葱畑       東御園まさ一


 誰しもが、こんな風景に出会ったことがあるでしょう。

ふと故郷に帰ったような、懐かしさを感じさせてくれます。

「茶の花」と「葱」と、共に冬の季題ですが、事実に即して詠えばこうなるのです、一向にかまいません。

 

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雨しとど泡立草に道迷ひ       伊藤波


 この泡立草は、かの外来種の背高泡立草でしょう。

あまり好まれない茫々たる荒草であればこその道惑いが実感されます。

しかも「雨しとど」です。

 正直に詠って、読者を納得させてくれます。



次は、厚木市「依知」地区です。



秋草や星井戸に寄る女たち       柴田博祥


 厚木市中津川のほとりに日蓮星下りの御寺と言われる妙純寺があります。

日蓮上人は、佐渡へ流罪となる前に一か月ほどこの地に滞在したそうです。

日蓮ゆかりの星井戸は、屋根のついた厳かな井戸で、代わる代わるのぞき込んで遠くを偲んだのでした。

この光景を詠うのに、「秋草」が、しっとりと哀れにも華やかに多くを物語ってくれます。

あとは「星井戸に寄る女たち」と軽く流したような言いぶりにとどめて、晩秋の余韻を静かにも曳いています。


 

天高し日蓮像の人を射る       鈴木一父


 門前に大きな日蓮像が立っています。

見上げるほどに、眉も目も大きく荘厳なる顔かたちです。

 「人を射る」という捉え方には、長年この寺の近くに住んで、日蓮像に合掌をおこたらない作者ならではのものと知りました。

 高く澄み切った秋の空が、悠々の時空を包み込んでいます。



   高塚や野菊は星の供へしか       栗田白雲


 相模川と中津川に挟まれた台地には、古墳時代前期の方墳がありました。

まこと古墳らしい、こんもりとした小高いものです。

「高塚や」という打ち出しには、この古墳への挨拶がたっぷり込められています。

その上に、「野菊は星の供へしか」というロマンを詠いあげたのです。

はるかなる思いが「星」を誘い出したのでしょう。

同じ作者の、


渡し場や名残はかなし蔦葛     白雲


も、情感の強いものですが、「もの」できっちりおさえているところが見事です。

渡し場のあとかたもなくなったところに、蔦が覆いかぶさっているのです。

「蔦葛」という蔦の古称が巧みです。



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公園は太古の住居小鳥来る       古舘千世


この縄文時代の古墳のありどころは、今は公園として整備され、人々の憩いの場となっているのです。

それをかくも的確にシンプルにまとめ上げました。

コウエンの「コ」、タイコの「コ」、コトリの「コ」の韻律が、明るくも歯切れよい口誦性を引き出しています。

小鳥の声もたくましく感じられます。



縄文の丘に上るや秋の蝶       坂田金太郎


古墳と言わずして「縄文の丘」とは秀逸です。言葉をよく噛みくだいています。

秋晴の古墳にはさまざまの蝶々が飛んでいました。

作者はこの数メートルの高さを一歩一歩噛みしめるように上られたことでしょう。それと同時に秋の蝶々もまたひらひらと上ったのでした。



   案山子見て行くや大山巡礼道       米林ひろ


もう稲刈が終わって、あたり一面は穭田となっていました。

ここは昔、霊場巡りの人々が歩いたという巡礼道でもあったのでした。

「案山子見て行く」には、そのことをしっかりと心に止めて、豊年の秋を堪能している作者の気持ちがさりげなく表出されています。



秋晴や塔婆も供花も濡れてをり       川井さとみ


空は真っ青、空気は澄んで、これ以上はないというほどの秋晴でした。

でも、卒塔婆や供花は濡れていたというのです。

よくぞ見届けたものと感心しました。

夕べは降っていたのでしょうか、あるいは墓参の湿りでしょうか。

この句によって、秋晴というものがいっそう天に筒抜けのように感じられます。



山並を背に穭田のどこまでも       田野草子


大山を筆頭に丹沢の山々が連なります。

遠くまで見晴らしながら、私たちは歩き続けました。

歩いても歩いても、稲を刈り終わった田の一面には、青々とした穭が生えているのです。

今さらに厚木という風土をすばらしく思い直したことでした。



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 その他の注目句をあげます。


葉から葉へおんぶ飛蝗は小さく跳び       新井芙美

秋風や肩出し歩く人のあり           湯川桂香

初鴨の艦隊通る荻野川             菊竹典祥

ぼうつーとゐてただぼうつーとゐて秋日和    菊地後輪

ぐい呑みはこれと決めたり秋の夜        中原マー坊

薯掘りや車三台並びたる            藤田トミ

業終へて巣に鎮もりぬ秋の蜂          泉いづ

秋の日や足だけ覗く立呑み屋          中園子

栗の実の頭に出でて産毛かな          河野きなこ

瓶詰にならないものか秋の空          吉田良銈

畑道を一人歩くや月明り            福山玉蓮

菊の酒差しつ差されつ更けにけり        石原由起子

国後島見えて峠の鹿ぞ跳ぶ           間草蛙


# by masakokusa | 2017-11-22 21:12 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
題詠選     兼題=笹鳴・茶の花      草深昌子選

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 特選 


   笹鳴の西へ西へと移りけり     芝田 太


西へ西へという、ただそれだけの不思議がダイナミックです。笹鳴は金色の夕日に染まっているのでしょう。



   茶の花が咲いてをり空凪いでをり     山内利男


 ゆったりと天地を押し広げたような表現が、初冬の清らかにもあたたかな日和を存分に感じさせてくれます。




   茶が咲くときまつて母のことを言ふ     田中美由紀


 白々として慎ましやかな茶の花。でも、その蘂は、はち切れそうな金色に輝いています。まるで母のように。



   秀逸


    しののめの笹鳴今日の吉兆に      長尾美保子

   茶の花に顔近づけし夕べかな      上野鮎太

   茶の花のひとつこぼれてつづかざり   山内節子

   茶の花の大きく咲けり神宮寺      藤岡薫

    水分や実生育ちの茶の咲ける      吉永佳子

   

   入選


    犬の子に茶の花日和つづきけり     天野桃花

   茶の花や鈴鹿連峰よく見ゆる      久田草木

   年寄りの話筒抜け茶の咲けり      前田摂子

   柴山は在所のはづれ笹子鳴く      貴田寿美子

   茶の花や真昼の月の高くあり      二宮英子

   柔道着干され茶の花日和かな      森山久代

   他60句


 選を終えて


私は句会が大好きです。自分の俳句の不出来はさておいて、人さまの俳句に敬意を表する場としての句会は、楽しくてなりません。つまり選句の緊張がたまらないのです。そんな私に、題詠選という喜びの機会をいただき、気合を入れました。果たして、皆さまの渾身の俳句を前に、たじろぐばかりでした。今さらに、俳句の鑑賞と実作は、背中合わせであることに感じ入った次第です。


(「晨」平成29年11月号所収)


# by masakokusa | 2017-11-06 21:26 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成29年10月

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貝屑に蛼なきぬ月の海    原石鼎   大正5年



貝屑は貝殻であろうか、人々が食べ捨てたものでありながらさっきまで生きていた貝の成分がそこはか付着していそうなもの、そのあたりに蛼(こおろぎ)がいてもいい。

だが、この「貝屑」は、生きている貝に思われてならない。

例えば、取るに足らないちぎれちぎれの和布を「若布屑」というように、この「貝屑」もまた、こまごましたものではあるが、今もって命を保っているものではないだろうか。

そんな貝屑の中に混じって、蛼がひそやかにも鳴いたというのである。

浜辺の索漠たる光景ながら、ここには月の明りがたっぷり注がれていて、冷やかな夜気の中に反響する命の共存がいとおしい。

蛼の声はどこまでも澄み切っている。

この蛼の声を絶妙に聞かせるのも、「月の海」という大いなる展開、際立った省略があってのことだろう。

大正5年というと、石鼎は三十歳。

ホトトギス社で高濱虚子の口述筆記などの手伝いをしていた頃である。

翌、大正六年には、 


うろを出し金魚にひろし月の池


もある。

蛼に「月の海」、金魚に「月の池」、何れも、哀れにも小さなるものに対して、揺るがぬもの、大いなるものを打ち出している。


ところで、虚子は、昭和二十三年刊行の『石鼎句集』に序文を寄せている。

「石鼎君を思うと、すぐ吉野時代を思い出す。それが石鼎君の最も優れた作品である許りでなく、俳句の歴史、少なくとも私等の俳句の歴史に於いて輝いた時代を形づくったものとして尚私の記憶にある」として、吉野一連の20句が掲げられている。

その中に、


花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月

花の戸やひそかにや山の月を領す

山畑に月すさまじくなりにけり


まさに「山の月」が浸透している。

この他にも、深吉野時代には、


馬盥の底穿くばかり山の月

  夜々あやし葎の月にあそぶ我は

  或夜月にげんげん見たる山田かな


等がある。

春であれ秋であれ、吉野の月は文字通りすさまじく描かれていて、石鼎の感動が月の明りにひしひしと伝わってくる。

いや、月光は、石鼎の若さ、石鼎の生気そのものと言ったほうがいいかもしれない。

昭和二年、四十歳のとき、石鼎は麻布本村町に新居を構えた。


月明の障子のうちに昔在


もはや、しみじみと落ち着いている。

この「昔在り」には、当然、深吉野の月と過ごした昔があることであろう。


門の燈をそがひに仰ぐ無月かな


「無月」であっても、石鼎は「仰ぐ」のである。

石鼎の眼に、かの皎々たる吉野の月がかかっていないわけはない。



# by masakokusa | 2017-10-31 23:50 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
昌子365日(自平成29年10月1日~至10月31日)
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    10月31日(火)      茸狩やその先頭ののけぞつて

    10月30日(月)      柿の実も古墳もそつちこつちかな

    10月29日(日)      鵙晴の昼のビールを飲み干しぬ
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     10月28日(土)      ポケットに榠樝一つや終日

     10月27日(金)      顳顬に蜂来る柿を喰うてをり

     10月26日(木)      長安の世の銀杏のにほひとも

     10月25日(水)      屋根に鳩廂に鳩や秋出水

     10月24日(火)      手習ひの反古を障子に貼りにけり
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      10月23日(月)      台風に結婚式を挙げてをり

      10月22日(日)      くさびらのべつたりとして根方かな
     
      10月21日(土)      路地に旗立てて茶房や草紅葉

      10月20日(金)      秋風や一つ囲ひに豚と山羊

      10月19日(木)      駒場とはわけても木の実降るところ
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      10月18日(水)      深川の蚊に刺されもし秋惜しむ

      10月17日(火)      船頭の漕ぐか漕がぬか蘆の花

      10月16日(月)      降り出して水引草に降りしきる

      10月15日(日)      色鳥のめっきり寒くなりにけり  
   
      10月14日(土)      秋雨の林の径を深くしぬ
 
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      10月13日(金)      御不動の片目のくわつと秋ともし 

      10月12日(木)      水澄んで鳰の潜りの深からぬ

      10月11日(水)      桟橋といふほどもなき野菊かな
  
      10月10日(火)      藁屋根に草生えしきる暮の秋
  
      10月9日(月)       素十忌の茸を一つ抜きにけり

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      10月8日(日)       秋風にいちいち鯉は口ひらく   

      10月7日(土)       まつ黒にまつ赤に秋果盛られたり

      10月6日(金)       名月の琵琶の音色となりにけり

      10月5日(木)       紀伊国屋書店の釣瓶落しかな

      10月4日(水)       栗御飯安乗灯台見て来たる                                            
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      10月3日(火)       今抜きし茸の指に粘りたる

      10月2日(月)       国分寺その裏山の栗落つる

      10月1日(日)       秋晴の大きな松の影にゐる

# by masakokusa | 2017-10-31 23:30 | 昌子365日 new! | Comments(0)
草深昌子句集『金剛』・書評抄録(その5)

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「俳句饗宴」201710(第752号) 鈴木八洲彦主宰



推薦図書

草深昌子句集『金剛』

 「物に語らせる」作風   小泉 潤



 本書『金剛』は「青草」主宰草深昌子氏の340句を纏めた第三句集である。

 氏は「あとがき」で以下の言葉を述べられている。

 「恒例の吉野の桜吟行の折、山桜の宿で先生はじめ句友の皆様と共に、だだ黙って金剛山に沈んでゆく美事な夕日を眺めたことは生涯忘れられない。

金剛こと金剛山は、吉野のある奈良県と私が生まれ育った大阪府の境に立つ主峰。

懐かしさが重なり句集名とした」と。


  金剛をいまし日は落つ花衣


 又、氏は吉野、近江、伊勢志摩などの日本を代表する風光明媚な地を永きに渡って吟行、幸せな歳月を作品として残してこられた。


   声はおろか顔も知らざる墓洗ふ

   掃苔の大東亜とぞ読まれたる


 太平洋戦争終末までの15年間の戦い、即ち大東亜戦争の「大東亜」の文字だけが判読されたのだろう。戦没者の墓と思えば見知らぬ墓ではあるが懇ろに洗ったのだ。


   消えなんとしてなほ左大文字


 大文字の火は8月16日に京都如意ケ岳の中腹で焚かれる送り火であり、その壮大さゆえに広く知られている。それが終りに近づく頃左大文字に、京都周辺の山々に焚かれ繋がっていく様はさぞ壮観であろう。

   

   破蓮ほどにも酔うてきたりけり

   湯気のものもとよりうまし冬紅葉

   寒晴や鼈甲飴は立てて売る

 

 破蓮の納得のゆくおかしみ。

 「湯気」と「冬紅葉」の相乗効果。

 鼈甲飴の琥珀色が眩しい。立ててあれば尚更である。

 梅の花も又、眩しさ故であり、白梅とも。


   この谷戸を深く来て会ふ涅槃像

   かりそめに寝たるやうなる寝釈迦かな

 

 はるばると来て拝した涅槃像は、膨よかにして今にも起き上がりそうな気配すら。

 

   入園の子や靴脱いで靴置いて

   遠足の子に手を振ってゐる子かな

 

 子供以外の情報は何もなく、繰返すことによって子供のあどけない仕草がより鮮明に見えてくる。

 平明に詠むことの強さと思う。


   銀蠅を風にはなさぬ若葉かな

   松風の少しつめたき武具飾る

 

 対象物と季節との取り合わせによって斯くも詩情の高まりを豊かにしてくれるのだ。


   ぬかるんであれば梅散りかかりたり


 春泥であれば梅も散ってしまうのか、と逆説的であり梅の花と一体となった作者がいる。


   蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり

   水のあるかぎりにお玉杓子かな


 蝌蚪の強い生命力を素朴に詠まれて二句。


   子規の顔生きて一つや望の月

   初桜一字一句に子規は生き

   子規思ふたびに草餅さくら餅

 

 写生俳句を首唱した子規。氏の子規への敬拝の心の表出した三句である。

言葉は限りなく易しく平明であるのに、対象物が鮮やかにして動かない。

俳句本来の「物に語らせる」を徹底されている氏の作風に肖りたく、自分の句を省みる機会をいただいた。(ふらんす堂刊)

   

  

   


# by masakokusa | 2017-10-31 20:05 | 第3句集『金剛』NEW! | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年9月     草深昌子選
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酒瓶に秋七草の一重かな       栗田白雲


秋の七草は奈良時代の歌人山上憶良が万葉集に詠いあげて選定したもの。

すなわち、萩の花、尾花(芒)、葛の花、撫子、女郎花、藤袴、桔梗(朝貌の花)であり、いずれも秋のもの静かな風趣を誘いだす美しい花々である。

作者は、このうちのどの花であろうか、ただ一つ、あるいは花そのものの美しさをほんの少々活けたというのであろう。

それもれっきとした花瓶にではなく、愛飲の酒瓶にふと気まぐれに挿してみたような雰囲気がいかにも風流である。

酒瓶はスリムな色ガラスのものであってもいいが、私には沖縄の抱瓶のようなものが想像されて楽しい。

よきお酒をたしなまれる白雲さんならではの美意識に貫かれている。




数珠玉や風の立ち初む夕間暮       石堂光子


地味な数珠玉に目が行くのは、まさに「風の立ち初む夕間暮」である。

先日、曼珠沙華に目を奪われていた折に、しばらくして、その後ろの薄暗がりに数珠玉の一叢があることに気が付いたのも、そんな感じの頃だった。

秋になっても蒸し暑い日などあって、夕方ふと風が起こったとき、そこには数珠玉の葉擦の音がかすかにも立つのである。

その実を沢山結ぶのは秋も深まったころであるが、「あら、こんなところに数珠玉が」と、思わず作者も一息つかれたのであろう。そういえば、この実を、数珠に連ねて遊んだこともあったっけなどと、なつかしい思いにふけられたのかもしれない。

緊密なる韻律に詠いあげた一句は、さりげなくも作者の内面にまで及んでその光景を深く見せてくれるものになっている。




虫の夜や五種の薬をたなごころ       森田ちとせ


何の病であろうか、五種類もの薬を飲まねばならない日々はさぞかし、つらい事であろう。だが、この句からはそんな悲壮感が感じられなくて、そういう今の状況を心静かに肯っておられるようである。

そうでなければ、「虫の夜や」という落ち着いたもの思いには至らないであろう。

また、下五の「たなごころ」には穏やかにも繊細なる神経が行き渡っている。

いろいろの色やかたちの薬が、そのままあたかも秋の夜の種々の虫の音のように見事に照応している。

人の日々はつくづく大自然のもろもろに癒されていることに気付かされるものである。

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一徹な店主と聞くや秋簾       日下しょう子


 一徹というと、「頑固一徹」「老いの一徹」などが、即座に思い起されるが、そんな店主ならばこその、信用ある老舗なのであろう。

夏が去って、そろそろ仕舞うべき簾が、まだ秋の日差しの中にややも古びた感じに掛かっているのが「秋簾」であるが、この簾はどうやら片付ける気もなさそうである。

「一徹な店主」だと言い切らないで、「と聞くや」という、もってまわった言い方が飄々たる味わいを醸し出している。



 

渡り鴨降り立つときの荒々し       坂田金太郎


秋もたけなわの頃となると北方から多くの鳥が渡ってくる。

それらを総括して「渡り鳥」という季題になるのであるが、この句はあえて「渡り鴨」と、きっちりと鴨に焦点をあてたところが文字通り際立っている。

季語の現場に立った句は、臨場感とともに勢いがある。

同じ作者の、


沢渡る牝鹿目で追ふ牡鹿かな    金太郎


も迫力がある。

「鹿」というと鹿の声を詠うことの多い中で、この句は声を発しないところが不気味にも寂寥感を漂わせる。

「俳句は頭で作らない、俳句は足で作る」という原則を、地で行くような句である。



      

萩の花その襟元の二重なり       泉 いづ


秋の七草のうちでも昔から多くの人々に愛されるのは萩の花が筆頭であろうか。

折からの風に揺れやすく、その花をこぼしながら優美に枝垂るるところなど、大雑把に詠いあげられがちであるが、この句はまことしみじみと萩の花そのものに目を見開いて接写している。

「その襟元の二重なり」と言われてみると、あらためて楚々とした可憐な美しさが、ほのかな色気さえ漂わせるようではないか。



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独り居の指差し確認蚯蚓鳴く       古舘千世


蚯蚓は実際鳴くのかどうか、螻蛄が鳴くのを蚯蚓と誤認したのだという説もあるが、俳人独特の感性が「蚯蚓鳴く」という季題を生み出したのであろう。

〈蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ 川端茅舎〉の句はあまりにも有名であるが、この句など蚯蚓は本当に鳴いているとしか思えない。

そういう季題に、千世さんは「独り居の指差し確認」を仮託されたのである。

火元ヨシ、戸締りヨシなどと確かめながらも、どこか不確かな気分が、ひそやかにも蚯蚓の声を聞かすのである。




竹の春梢は風の中にあり         石原虹子

 

 竹は春に筍を生長させるため親竹は生気を失い、黄色くなって葉が落ちたりする。

 秋になると回復して葉もあおあおとしてくる、これが「竹の春」である。

 この句の「梢」はあたりの木々の梢であってもいいが、作者は竹そのものの枝の先々のありよう風の中に詠いあげられたのだろうと思われる。

ものを見る目に、真っ正直な、静けさがあって、また対象物への愛情がなければこのように淡々とは言い切れないものである。




ドナウ川漁夫の砦に懸る月        松尾まつを


 ブタペストにある「漁夫の砦」からはドナウ川が一望されるという。

「ドナウ川」も「漁夫の砦」も知らない選者が一読して、現地に誘われたようなはるけさをもって、思わず月の明りを仰いだのであった。

 まこと俳句の妙である。

この地球という小さな惑星のどこにあっても皎々たる月光は同じものに違いない、ドナウ川という固有名詞の響きがよく効いている。

漁夫の砦からは、漁業で生計を立てるものの堅固な砦を想像させられたが、事実、その王宮の丘には、魚市などが立ったようである。


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その他の注目をあげます。


  幾度も男の沈む稲穂波          瓜田国彦

   鬼灯の小さきままに熟しけり       平野翠

   星月夜隣の夜泣きおさまらず       中原マー坊

   二人して田に立つ二百十日かな      中澤翔風

   大雨の一夜に過ぐるちちろ虫       間草蛙

   露けしや日の出る前の草葎        熊倉和茶

   喫煙所電子たばこや鰯雲         末澤みわ

   自転車に二百十日の風強し        山森小径

   閂を指し込み二百十日かな        高橋まさ江

   あの山は秋の七草揃ふなり        石原由起子

   初秋刀魚大きな目玉こちら見ゆ      加藤洋洋

   讃美歌の壁を流るる蔦紅葉        上野春香 

   蔵の壁ひび割れてゐる法師蝉       新井芙美

   朝日子やどの草も露頂きて        中園子

   秋風やパーマ屋裏の青タオル       黒田珠水

   あの友もこの友も無事敬老会       田淵ゆり


# by masakokusa | 2017-10-04 20:26 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年8月     草深昌子選
 
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  独り居の日々の気ままや秋の蠅    松尾まつを  

 一人暮らしは自分の思うまま自由にはかどってゆく、その感慨が上五中七とストレートに読み下されるが、下五に至って、「秋の蠅」とくると俄かに作者がそのまま秋の蠅に成り代わったようなやるせなさがぴたっと寄り添ってくる。
 あの命盛んな夏の蠅は、いまや秋の蠅となって、澄み切った空気の中に、一抹の哀愁をきらっと光らせているのである。



   夏深む駅前書店閉ぢしまま     奥山きよ子 

 本厚木駅南口には立派な本屋があったが、潰れたのか改築なのか、閉じられたままである。
 何処の駅でもこのようなことは昨今よくある光景であろう。  
 駅前であるから、往き来するたびに目が行ってならないのである。
 一向に再開しない書店の先行きはどうなるのだろう、「夏深む」はごく自然に感受されたもの思いであろう。
 その心情は、ブティックやレストランでなく、書店であるからこそのものである。
 作者はカルチャー教室に入会されたばかりだが、その感性は鮮やかである。



   新涼のラジオ体操第二かな      佐藤健成  

 「涼し」は夏の季語、「新涼」は秋の季語である。
 一般的にいつも行われているラジオ体操第一では新涼にはならない。
 「ラジオ体操第二かな」、それだけで「新涼」を詠い切ったのである。
 夏の暑い日々を乗り越えて、いま何ともすっきりした気分でラジオ体操をやっている、その心地よさが「第一」ならぬ「第二」に遺憾なく発揮されている。
 何も言わない、ただ省略する、これが俳句である。
 
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   新涼の水に浸すや米二合       山森小径  

 「米二合」がいい。
 慎ましくも清々しい暮らしぶりまで窺われて、まさに新涼の水が冷たく透き通っている。
 秋になって初めて感じられた涼気が、日常の生活のうちにあった。
 文字通り手触り満点の句である。



   踊子のレース飾や小さき村      佐藤昌緒 

 「踊」といえば盆踊、「踊子」と言えば盆踊の踊り手のことである。
 この句は旅先のものであろう、どこか地方の山裾の村の盆踊であろうか。
 そこで出会った踊子が浴衣でなく、レース飾の服装、あるいは髪飾りなどが、いかにも愛らしかったのであろう。
 「小さき村」という下五から受ける印象がひそやかにして清潔である。

 ところで、作者は海外旅行が多いから、この句も海外詠かもしれない。
 ふと、高野素十の〈づかづかと来て踊子にささやける〉が思い出される。
 これは海外詠で盆踊の句ではないとされたが、いや本当に新潟の盆踊風景だという説もある、どちらであってもいい、盆踊として鑑賞しうるかどうかであろう。
 素十の句は、盆踊の句としてまこと名吟である。




   炎昼や胸に抱く子の指しゃぶり     芳賀秀弥  

 燃えるような夏の暑さの真昼である。
 赤子の指しゃぶりと炎昼の間に何の因果関係もないのであるが、
この二つが合わさることによって、生きとし生ける物の身に猛暑が静かに及んでいることを感知するのである。
 作者の眼差しは、指しゃぶりでもって無心に耐えている赤子がなんともいじらしく思われているのだろう、そういう作者の心中までもが察せされる。

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   百姓の肩に来て鳴く秋の蝉      二村結季  

 単なる蝉であれば平凡なる情景が、「秋の蝉」によってしみじみと、風趣あるものに感じられる。
 自然のなりゆきにそって働き通しの百姓に一抹の慰めをあたえるような一瞬である。
 作者のものを見る目に愛情がこもっている。



   鬼百合の雨を溜めたる花の反り     伊藤波   

 これも、ただの清楚な白百合の花ではおもしろくない。
 「鬼」という名をかむせらた鬼百合ならではの咲きようである。
 「鬼百合」であるからこそ「雨を溜めたる花の反り」が効いているのである。
 このように、ものをよく見て作った即物具象の句はどこまでも嫌味がなく、何度読み返しても鮮やかに景が浮かび上がるものである。



   花芙蓉せめて夕日の沈むまで     栗田白雲  

 何と甘美な表現であろうか。だがその調べこそが、思わずうっとりとしてしまうような芙蓉の花の美しさを見せてくれるのである。
 作者自身が相当、芙蓉の花の美しさに惚れこんでいなければ、こうは言えない。
 「沈むまで」、物言いをここに止めてしまったような下五も巧い。



   雨止みしどの巌頭も霧立てり     森田ちとせ

 霧を詠いあげて何とスケールが大きく晴れやかなるものであろうか。
 作者は高峰を登山する方であるから、巷を東奔西走しているような私には想像もつかない世界を体験されていることだろう。
 霧一つとっても、後退りするような厚みがある。

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 その他、注目句をあげます。

   パソコンに天眼鏡や今朝の秋       末澤みわ  
   炭坑節待って輪に入る踊りかな      泉いづ  
   落し文亡き友のこと夫のこと        大本華女
   盆唄や今宵ますます名調子         中園子
   鳴き尽きて蝉のころがる路傍かな     矢島静
   丹沢の峰も恥じらふ西日かな        中野はつえ
   秋蚕飼ふ今宵も母は寝もやらず      田野草子
   君とゐて風鈴の音のただ一つ        柴田博祥
   濁流の鴨を呑み込む雷雨かな        狗飼乾恵
   富士川の流れ穏やか盂蘭盆会       藤田トミ
   簾揺らしゴーヤ震はすはたた神       東小薗まさ一
   音もなく庭に搖るるや白芙蓉         木下野風
   蜻蛉の影の過ぎゆく用水地          森川三花
   里芋や葉は日に向かひ大開き        菊地後輪
   赤ん坊の唇むらさきに夏の海        湯川桂香




# by masakokusa | 2017-10-01 15:20 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
昌子365日(自平成29年9月1日~至9月30日)
       9月30日(土)       秋風や長寿まんぢゆう二た色に

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       9月29日(金)       鉄砲も艦も露けき模型かな

       9月28日(木)       仲秋やおほむね白き人の服

       9月27日(水)       露けしや飛蝗の上に飛蝗乗り

       9月26日(火)       破蓮皿回しなど思はるる

       9月25日(月)       説法の跡はここらの秋の蜂

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       9月24日(日)       お悔やみを受くる石榴の下にかな

       9月23日(土)       秋彼岸猿の臭ひを放ちけり

       9月22日(金)       小鳥来る梢のどれも欅かな

       9月21日(木)       落ち合うて府中の昼や曼珠沙華

       9月20日(水)       壁ぢゆうに落書台風来つつあり
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       9月19日(火)       蚊に喰はれどほしの子規の忌なりけり
         
       9月18日(月)       としよりの日のまつさをな窓の色

       9月17日(日)       木は朽ちて石は穿ちて水の秋

       9月16日(土)       ちかぢかと寄れば色ある草の花
 
       9月15日(金)       いなり坂にはかに急や曼珠沙華
 
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       9月14日(木)       足もとにたまに手もとに秋の蝶

       9月13日(水)       蝉鳴いて蟻は走つて蓮は実に 

       9月12日(火)       秋の蠅輪ゴム跨いで来たりけり

       9月11日(月)       錠前に錆をつくしてつづれさせ

       9月10日(日)       露けしや城垣高くビル高く

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       9月9日(土)       大方は墓場の寺や猫じやらし

       9月8日(金)       雨の来て笑はぬ案山子なかりけり

       9月7日(木)       濠にして沼めく秋の蓮かな

       9月6日(水)       あばらやの隣あばらや白木槿

       9月5日(火)       秋の蚊のここは千代田区九段下

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       9月4日(月)       拳骨に載せて飛蝗を見せらるる

       9月3日(日)       野分過ぐ花屋の前の豚カツ屋

       9月2日(土)       木のそよぎやまざる二百十日かな

       9月1日(金)       めいめいのことして一家爽やかに 
       
        
# by masakokusa | 2017-09-30 23:59 | 昌子365日 new! | Comments(0)
『青草』第二号・2017年秋季号
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 結社誌「青草」は船出したばかり。
 その第二号に、図らずも草深昌子自らの句集『金剛』の特集が組まれることに、いささか躊躇った。
 でも、今はこれでよかったと感謝しています。
 皆さまから寄せていただいた鑑賞文の数々、これは私への激励だけではなく、我らが「青草」会員の一人一人にとりましても、得難く学ばせてもらえるものであることを、確信したからです。
 先日ふと、三木清「人生論ノート」を再読しました。
 「死者が蘇りまた生きながらえることを信じないで、伝統を信じることができるであろうか」は、もとより、
 「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである」に、はっとさせられました。
 だからこそ、俳句という芭蕉の文学を一生懸命に学ぶ価値と喜びがあるということでしょう。
 希望をもって生きる者はいつだって若い、その心意気で、静かにも明るく歩んでいきたいと願っています。
                                   
                草深昌子

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草深昌子句集『金剛』特集


  草深昌子句集『金剛』書評       岩淵喜代子

      文体を獲得した作家          

 
 俳句の未来はどうなるのかという話題は、絶えず浮上する。しかし、云いつくした論を漉し器に流し込んでみれば、最後に残るのは写生しかないのである。
 芭蕉の「即刻打座」も、虚子の「客観写生」・「花鳥諷詠」にしても、この写生ということばを下敷きにしなければ成り立たない。俳句だけではない。文芸のすべては、この手堅い写生を駆使することこそが基本なのである。
 草深昌子さんの俳句は、まずはこの写生力という点で際立つ俳人だとかねがね思っている。

   秋風のこの一角は薔薇ばかり
   綿虫に障子外してありしかな
   対岸の椅子に色ある残り鴨
   一束は七八本の苧殻かな
   あめんぼう大きく四角張つてをり

 一句目(秋風の)は、ゆったりと平らな地形が広がる中に突然薔薇園が現れる。秋風の吹く虚の景から薔薇園を焙り出したような巧さがある。
 二句目(綿虫に)は誰でも知っているように小さな虫である。
人がそれに目を止めるのは、純白の綿を纏ってふわふわ飛んでいる様子が詩情を誘うからだ。
(綿虫)に続く(障子外してありしかな)によって、真白な綿虫がより真白く、小さな綿虫が大きく見えてきて、不思議さを誘うのである。
 三句目(対岸の)もまた淡々と視覚が捉えた景である。対岸という漠とした景に椅子を置いて、さらにその椅子に色がある、と叙述したときに風景の焦点がきちんと定まったのである。
そうして椅子と残り鴨に、有るか無きかの響き合いが生まれはじめて景が語り始めるのである。
 四句目(苧殻)は盆の迎え火や送り火のために用意されたもの。
買い求めてきた苧殻を眺めながら、これが彼岸のはらからたちの迎え火になるのかと思いながら眺めていたのが感じられる。
その想いが、一束が七八本だという極めて沈静な、そして極めて即物的な叙述に置き変わった。
 五句目も視覚が捉えた発見である。四角張っているのはその輪郭ではないのである。
身体から伸ばした長い四本の足が押さえた足先を点として結んだ空間なのである。
句集にはこの作者独特の視覚の発見が随所にある。

   七夕の傘を真つ赤にひらきけり
   蝶々の飛んでその辺みどりなる
   いつかうに日の衰えぬ梨を剥く

 さりげなく読み進んでいく中で、ふと意表を突かれて立ち止まるのが一句目である。
 普通に言えば赤い傘を開いたという叙述なのだが、その赤いという形容詞を動詞的な使い方をしているのだ。
 そうしてこの作者が詠むと(傘を真つ赤にひらきけり)となる。
 まるで開くたびに様々な色に変化させられるかの如く。この巧みさは、七夕の季語斡旋からはじまっている。
 この季語によって、いよいよ傘の赤さが際立つのである。
 作者の文体と言える表現方法である。
 二句目の蝶々の飛ぶ先々がみどりだとする断定、三句目の梨を剥くにいたる叙述、ことさら変わっているようにも見えないのに独特な文体である。

   一枚の朴の落葉を預かつて
   秋の蟻手のおもてから手のうらへ

 朴の句は、思わず口元が緩んでくるような面白さがある。
 冬になると大きな朴の葉が根元に散乱していることがある。
 そんな朴の一枚が、誰かの手から作者の手に預けられた。
 ただそれだけのことなのだが、預かった手にある大きな朴の葉がさらにクローズアップされて、置くことも仕舞うことも出来ない戸惑いが(預かつて)に発揮されている。
 その、対象物を拡大して提示させているのは、二句目の蟻にも言える。
 句集を開きながら、しばしば巧みな作り手だなーと感心するのである。

   蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり

 最後になってしまったが、私の愛唱してやまない一句である。
 小さな生き物を覗き込んで、その生き物の動きを追う。
 静寂な視線で見据える無心な作者がいる。その無心さが見事である。


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# by masakokusa | 2017-09-30 23:59 | 俳句結社『青草』NEW! | Comments(0)